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9.ぼくらはさいごのキスをする
「言った――」
 とうとう、と藤矢は言った。ソファーの上で、彼は癖付いたように瞼に掌を乗せて項垂れた。
「いいんだ――」
 呟いた言葉に嘘は無い。そう、これでいいんだ。後悔の気持ちが無いほど、藤矢は晴れ晴れとした気持ちをどこかで感じていた。

*

「どうして」
 それが一番のの気持ちだった。どうして藤矢は自分にこの花を渡したのか?私の事が好きだから?でも、それは――
「どうして」
 それに、どうしてこんなにも動揺している自分が居るのだろう。
 胸が詰まりそう。
 涙が出そう。
 声を出したらきっと震えてしまう。
(あぁ、わかった)
(どうして隼人を拒んだのか)(迫ってくる、藤矢を嫌だと思ったのか)

(優しくされたかったんだ。彼に、ただ――)
(だから、冷たい――私を物のように扱う態度が酷く悲しかった)
 一度彼の事をそう思えば止まらなかった。その最中でも、は頭の中で一つの結論を出した。
(好き――?)
 ううん。それとは違うのかもしれない。
 だけど、こんなにも胸が詰まりそうに――彼のことを思える。
(私が――藤矢を?)

 はコトリと鉢を地面の上に置き、ぐいっと目に溜まった涙をふき取った。行こう。言って、そして――私も動かなくては。

*

 窓辺のソファーに、日に照らされるように彼が眠っていた。眠った顔でさえ、極端に綺麗で思わず息を呑みそうな光景だ。
「藤矢」
 掌に、目を伏せ――彼が起きているのかは定かではない。
「藤矢」
 気持ちが現れるよう何度も彼の名を呼ぶ。はソファーの前に膝を付き、すっと彼に腕を伸ばした。
「ごめんなさい」
 その言葉に、藤矢の瞼から掌が退けられる。彼は黒い瞳で目の前に座り込む彼女を見て、眉を寄せ差し出された彼女の掌を握る。
「どうして、君が謝るの?」
「だって、私がそっけないから――隼人が好きだとか言うから――無理やりにでも動かそうとしたんでしょう?」
「――
「もう、いいのよ。もう――消せはないけど終わりましょう。そして始めるの」
 でたらめにの口から想いは溢れていた。深崎がそう唱える彼女を見て、眩しそうに目を細める。
――」
「藤矢」
「うん」
「私、貴方のこと――結構好きよ」
「結構?」
 くすっと喉をならして――藤矢が柔らかく口元を緩めた。脈打つ心臓が、少しずつ落ち着きを取り戻す――の腕を握るのとは逆の手で藤矢はの頬に手を伸ばした。

「ありがとう。許してくれて――これからもっと良い男になってきっとを振り向かせてみせるよ」
 ふわりとは花のように微笑んだ。
「うん」

 深崎は頬に添えられた彼女の腕を引いた。両手を取られ、向き合ったその顔に深崎は啄ばむようなキスを幾つも落とした。
 外からはもう既に赤くなった夕日の光が差し込んでいる。まるで永遠に感じ取れた夏が、今、時間をかけて溶けていくようだった――窓の外にある鉢の中、胡蝶蘭が新しく吹く秋風に静かに身を揺らす。

 はこの日から黒い蝶の悪夢を見なくなった。腕を引いてくれたあの人は悪夢を見なくなったあの日以来正体を確かめることも出来なくなったが、はあれを深崎であったと信じ込んでいる。


 名前を呼ばれても、もう少女は顔を伏せなかった。
「キスをしましょう。私の好きな貴方と」
 この夏の最後の口付け――

 ねぇ、藤矢。
 冬にあの花はきっと咲いてくれるわ。
 そしたら二人で一緒に見に行きましょう?



ぼくらはさいごのキスをする

忘れないよ、きっと――ずっと
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fin