1  2  3  4  5  6  7  8  9 
1.あと1センチ
 それを願っているのは自分なのか、他人なのかは得てしてわからなかった。解せないというのは、まさに今の僕達のこの状況なのだろうとも思われるが、そんな気持ちを持っているのは おそらく彼女だけだと心の奥の深い闇で笑っている自分が居る気がしないでもない。
 自分でも訳の判らない自問自答を繰り返している。彼女との関係。
 はたして自分がこれらをはっきりさせたいのかどうか――それさえ曖昧で息が出来ないほどに苦しい。

*


 五月雨が降る様に穏やかな声が聞こえる。けれども隣に居るはその声にぴくりとまるで小動物のように肩を揺らし、ぎゅっと何かを押し詰めるかのようにその白い掌を黒いスカートの上で握り締めた。

 聞きたくない。聞きたくない。少女はまるで心ではそう叫んでいるかのように、目を押し瞑りその声を聞かないようにした。少女の隣に座っていた――深崎藤矢はそんな彼女の反応に対し、無反応に視線を向けた。
 無機質なエンジンの音が車内に充満する。運転手は何があってもコチラを振り向かないことを知っている深崎はけれども確認するように前を一度だけ見て、そして隣の少女に向けた。サラリとした黒い髪がまっ白な頬から、まるで滑り落ちているように添えられている。深崎はごく当たり前のように、それに手を伸ばした。

 三度目の呼びかけ。それに彼女はするっと瞼を上げた。黒い石がそこから覗かれ、深崎はそれを見る。彼女は怒っているような、けれども怯えている様な顔で彼を見つめ返す。深崎は口元に手を近づけ、クツクツと喉の奥で笑い声を上げた。苦笑とも取れるようなその笑みに、少女はぴくりと眉を寄せ怪訝そうな表情を見せた。
「可笑しいね、まったく」
 次の瞬間。少女は腕をするっと引っ張られ彼の元へと引き寄せられた。逃げようと腕でもがいてみても、剣道部主将の彼の見た目異常に力のある腕には到底敵いそうに無い。は声を張り上げようと、深く息を吸い込み口を開けた。
「駄目だよ」
 彼女の口に自らの掌を押し当て、自分の唇の前に人差し指を立てて深崎は囁くように少女の目前で小さく漏らした。少女は彼の行動に再びビクリと身を震わす。クツクツと彼は喉で笑う。少女は怪訝そうに顔を歪める。

「誰の名前を呼ぶ気だったの――例の新堂?」
 母が幼子に問いかけるように甘い声で深崎は掌を押し当てたの耳元でそう囁く。彼の口から出てきたその名前には目を見開き、抗議するように抵抗した。
「駄目だよ」
深崎は再びそう囁く。の乾いた瞳には、彼の黒い瞳が映る。深崎は彼女の口元に押し当てていた掌をゆっくりと解き、そのまま滑らすように顎へとかけた。は何かを耐えるようにぎゅっと瞼を閉じた。それを見て、深崎がかすかにクスリと口角を上げて微笑む。
「キスをしようか?君の嫌いな僕と」
 そして彼は、彼女の髪を手に取りそっと耳元へ掛けてやる。瞼の上に、唇を滑らすように口付けして深崎は彼女から十センチばかり顔を遠ざけた。
「目を開けて」
 けれどもは開こうとしない。深崎はそれを見かねてか、彼女の腕をぐっと強く引く。そうする事で彼女はいとも容易く車の椅子の上、深崎の下に組み敷かれる。突然の状況に慌てたように彼女が短く悲鳴を上げる。目を見開けば顔のぶつかりそうな距離に深崎が待ち受けていた。
「何を――」
「キスさ」
 彼女が答えるまもなく、深崎はそれを重ねようと彼女の頭の下に手を差し入れ頭を押し上げた。息が重なりそうな程の距離になり、互いの熱が否というほど伝わる状況の中。深崎はを視界で抱きとめ――そして、瞳を閉じた。



 それは触れ合っても埋まらない距離
update : xxxx.xx.xx
index