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6.キスしていいですか
 黒い蝶が、囲んでくる。私はぎゅっと瞳を閉じた。
『おいで』
 誰かの声が聞こえた。けれども、は恐ろしくて目を開けることが出来ない。そんな彼女を見かねて声の主がすっと彼女の手を引いた。

*

 いつもとは違う夢だった。は起きてからも茫然とその事を振り返っていた。
 あの声は一体誰?
 手を引いてくれたのは誰?
「――!?」
だが次の瞬間にその考えは一気に吹っ飛んでしまった。は隣で寝息を立てている深崎に、驚きで目を見開き息を呑んだ。
(そうだ)(あのまま眠ってしまったんだ)
はやっと昨日の出来事を思い出し、ふうっと安堵の息を漏らした。今日は休日という事もあってどうこう急ぐ必要は無い。

 いつもなら真っ先に深崎から逃れようとするだが、その日はどうにも動こうという気にはならなかった。いつもならコチラの意見お構いなしにに手を出す深崎が今はこんなにも無防備に寝息を立てて、綺麗に眠っているのだ。彼が普段どうやって眠るのか、にはとても興味深い事だった。
『僕は魔王なんだろうな』
 極端に黒い彼の髪の毛をすっと指に絡めた瞬間昨日の彼を思い描いた。
 どうにも、昨日の彼は様子が可笑しかったように感じる。
『藤矢』
 そして、昨日何故自分は彼の名前を呼んだのだろう?
 彼の事は嫌いなはずなのに?
 彼が泣きそうなほどに切ない顔をしていたから?
『ごめんね』
 それにどうして彼は私に謝ったのかしら?
 謝らなくてはいけないことは――沢山してくれたけど、どうして今更に謝罪を?
 私は何を許すの?
 何を許して欲しいの?
 何を願ってあぁいったの?

 名前を呼ばれた瞬間――息が詰まるほどに胸に何かが押し寄せてきた。
 あの感情はそれこそ何なのだろう?
『ごめんね』
 彼の言葉に思わず抱きしめたい気持ちに駆られた。いけないことかもしれないけど、彼が泣く場面に居れて嬉しいと素直に思った。だから、嬉しくて――呼吸が出来なくなって――胸に掻き入れるように抱きしめた。
 するすると柔らかなその髪の毛、の指の間をすり抜けていった。彼女は何度もそれに触れ、眩しそうに目を細めて眠る彼を見る。
「藤矢」
 その名前、彼の姿。
「藤矢」
 確認するよう、は小さく――けれども何度も彼の名前を呼んだ。すると伏せられていた瞼に隙間が出来、ふっと黒い目が深崎に覆いかぶさるように覗き込む彼女を捕らえた。
 何故かは分からないが、――嬉しいと思った。素直に、は思った。
「何?」
 寝転んだまま、深崎はすっと腕を伸ばし彼女の頬に掌を滑らす。その感触がくすぐったくてはふっと微笑むようにはにかんだ。藤矢もくすくすと小さく喉を鳴らす。
。キスして」
 彼女の名前を呼び、藤矢は口付けをせがんだ。いつもなら直ぐにでも立ち退くのだけれども、には弱々しく添えられた深崎の手を跳ね除けることなど出来なかった。



  キスしていいですか――そうして笑うんだ君は。
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