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4.キスと涙と夏の嘘
 の父は大変な資産家だった。そうつまりは"だった"――"過去"で、あり。現在はごく一般の収入の社会人と変わらないほどの収入を貰っているにすぎない一人の男であった。
 だがそんな父は過去に積み重ねた実績を明かすように大きな一軒家を一つ持っていた。資産が失敗して一時期、無一文に等しい状況にまで陥った彼を見て――誰もがそれを迷いも無く売ってしまうのだろう。と思ったが、彼は何を思ったか――それを姉であるという深崎嬢に金策なしで譲り渡したという。

*

豊かな洋館で5年――おんぼろのアパートに5年
そうして彼女は10年の歳月を生きた。
 は道端に立っていた。黒い瞳がおぼろげに見つめるその先は大きな一軒家。昔とは違い今では荒れ放題のように草が伸びている。一見無人のように見えるその家だが、そこに人が住んでいるということをは知っていた。
(……)
 ゴクリと息を呑み、は裏口の方へと向かった。洋風の銀細工で造られていたゴシック調の華やかな洋館はこうしてみるとホラー映画にでても違和感ないほどに衰えたものとなっていた。時の流れを感じ、はふと悲しい気持ちを感じた。力なくその錆びた扉を押すと軋む音を出してそれは思ったよりもすっと前に出て行った。

足を踏み出すと、がさりと草の音がした。始末されていないのか、足元には夏場だというのに多くの枯葉が広がっている。は唇を噛み締めた――幼かったとはいえ、今でも時折思い出すのは紛れもなくこの家の美しい庭に咲く花々だった。
「誰?」
背中から聞こえた声にはビクリと身を震わした。背中をぞっと蜘蛛が這うような寒気が走り、心臓が自分のものではないように早く脈打っている。
「誰?」
がさりと音がした。落ち葉を踏みしめ誰かがの隣に立っている。は恐怖に瞳を閉じた。
「君、誰?」
今度は前方から。予想よりも高く聞こえた声には細く瞳を開く。の顔を覗き込むように一人の背の低い男の子が居た。のとは少し違う――けれども真っ黒な瞳で男の子は自分よりも背の高いの瞳をじっと見つめる。男の子は眉を寄せ、不審そうにを伺っているが、にはその男の子の方が不審に見えた。
「貴方、誰?」
「何で、お前が聞くんだよ」
 目を細めて男の子は何を言っているんだとも言いたげに言う。
「ここは僕の家だ」
「あ」
 ぽつりと呟く、そういえば父の姉には一人息子が居るという話を聞いたことがある。
「わ、私は
「で?」
「えっと…貴方の名前は?」
 教えて、とは首を傾げ少年に尋ねる。ニコリと笑うに、少年は暫く考えるように黙り込んでそして小さく口を開いた。
「藤矢」
「トウヤ?」
「それで、ここに何しに来たの――は」
「その、様子を…見に」
「は?」
 意味がわからないとばかりに顔一杯で不機嫌を表す藤矢には慌ててその先を話す。
「この家。私のお父さんの家だったの。私のお父さん、貴方のお母さんにこの家をあげちゃったの――私この家大好きだったの。だから」
「あぁ」
 納得したのかは、定かでないが深崎は軽く首でうなづく。
「勝手にすれば。母はずっと海外だし。お手伝いが来るのも電話をしたときだけだから」
「本当――!?」
 藤矢の答えには信じられないとばかりに目を見開き驚きを表す。無愛想な待遇で来たこの男の子がまさか自分が家を徘徊することを許してくれるなどと思いも無しなかったのだ。
「ありがとう――ありがとう、藤矢!」
「――!?」
 嬉しさの余り、抱きつくように藤矢に体当たりしたに藤矢は顔を染め――悲鳴ともとれるような奇声を上げるのであった。

*

 この背が伸びて、早く彼女を追い越したい。と、藤矢はその華奢な背中を見て思った。中学三年――十五歳――二人は少しずつ大人になっていった。あの十歳の夏を期にして、彼女――は定期的に藤矢の家を訪れるようになった。だけど、一度も部屋へは入ったことが無い。彼女はいつも庭先にあるベンチに腰掛け、そこから見え咲く小さな花々を何時間も見つめているだけなのだ。
「いつも思うけどさ――それ、楽しいの?」
「楽しい?さぁ――でも、見ていると嬉しくなるわ。だって私と藤矢が一生懸命咲かせた花じゃない」
 そう言ってにこりと振り返る彼女を見て、藤矢は眩しそうに瞳を細め口角を上げる。
は、」
藤矢は呟き、もう殆ど身長の変わらない彼女の隣に同じように腰掛けた。は藤矢の呟きにふっと視線をそちらに向ける。
「好きな人、居るの?」
「うん?――うーん」
 思いがけない深崎の言葉に、は密かに頬を染め顔を俯かせる。馬鹿らしいとも思うのに何故だろう、彼女のそんな仕草一つ今の藤矢にはとても可愛らしく思えてしまう。
「新堂ってね、幼馴染が居るの――近くに住んでいて、スポーツ万能で――結構かっこいいのよ」
「そう」
 外向きでは優しく笑って見せたが、藤矢は内心焦っていた。どうしよう――に好きな人が居た――。
「好きって不思議な気持ちよね。苦しいのに、心地いいのよ――見ていると」
「うん」
 それは今の藤矢には痛いほどわかる言葉だった。藤矢はふっと自然に隣に座る彼女を見た。同じ背だけれども小さくて華奢な身体、黒くて綺麗な髪の毛。笑うと細められるその瞳。見ていると幸せと同時に、胸を閉めつけられるような痛みに襲われる。だけど、それでも目を離せない。
「藤矢」
「ん」
「ありがとう。私、ここも貴方も大好きよ」
「そう」
 何故かはわからないけれども、その時深崎は決意した。望みが無くてもいい。いつかこの短かな身長が彼女を追い越したら――その時、この気持ちを、

*

 だけど、そんな夢見事を思えたのもあの頃自分が子供だったらだ。

 一年も発ち、やがて彼女の父は病魔によってこの世を去った。(母も同時に病にかかったらしい)身寄りも途方もお金も無い――彼女はもちろん僕の所へと尋ねてきた。
 その日は偶然雨が降っており、彼女はその最中何時間もかけてこの家に辿りついたのだろう。夜中――ドアを叩く音が聞こえ、深崎はゆっくりと扉を開いた。びしょぬれにまで身体を濡らした彼女が濡れた瞳で深崎を見上げた。頭にくらりと妙なスイッチが入ったのをその時、深崎は感じた。
「――藤矢」
 雨のノイズ音でかき消されそうなほど、微かな声で彼女は深崎の名前を呼んだ。そこで深崎は気付いてしまった、自分の背が玄関で小さく震えている彼女をとうに追い越して居るということを――だけど、だけど。

 深崎は腕を伸ばした。彼女の身体をぐい、と引き強く口付けた。
彼女のくぐもった抗議の声を押しつぶすように舌を伸ばしそれを閉じた。
溶けてくような熱を頭の芯から痛いほどに感じた。
瞳をかすかに開けば潤んだ彼女の瞳があった――涙で滲んだその瞳でさえ、可愛らしいと思えた。好きだと叫びたくなった。

――その時、この気持ちを、

 甘い事を考えていた。
 けれども純粋だったあの――いつかの自分に、その時確かに謝罪の念を持った。
 深崎はその日、一年前の自分を裏切り――という快楽に溺れた。



  キスと涙と夏の嘘、
  それで全てが崩れるとも知らず
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