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3.あなたの口付けでも
 人間という者は本当に不思議だと最近思う。生命の危機でも、病気でもありやしないのに五月蝿い程に心臓が脈を打つのだ。それを恋と呼ぶのか、愛と呼ぶのかはわからない。その気持ちは言葉で説明できるほど単純ではなく、かとして論文にまとめ研究しようというほどに難しい事ではないのだ。
新堂は窓枠というフィルタを通して、外の景色を見た。
その、青い空が痛く目に染みる。

*

 もともと彼女は人と喋る方の人間ではなかったのだが、今日。学校に着いてからの彼女はいつも以上にだんまりを決め込んでいた。

 朝のHRが終わり、チャイムの音が余韻をもって響いている中、そそくさと席を立ち上がる彼女をそうさせないよう隼人は彼女の机の前に立ち、その机の上に手をついた。ビクリと彼女の肩が振るえ、そしておそるおそると言っていいほどのゆったりとした動作で隼人を見上げる。黒い瞳が、隼人のそれとかち合い――隼人はいいようの無い感情を感じた。
「今朝の――誰?」
「深崎…藤矢。となりの私立の高校二年生」
隼人は「ふーん」と、気の無い返事を返した。

 退屈な午前の授業が終わり、隼人は再び彼女の机の前に立ち、その机の上に手をついた。は俄然と黒い目を伏目がちにして、隼人を見ようとはしない。
「親戚って――?」
「身寄りが無いから一緒に住んでるだけよ」
「――な!?」
隼人が叫ぶような大きな声を出し、はビクリと身を震わした。クラスメイト達の視線も少なくこちらに向いていて、隼人は罰の悪そうな顔で小さく「ごめん」ともらした。

 時間がこんなにも長いものか、と隼人はその日イライラとしていた。そして記憶が無いと言えば聞こえはいいが(実際ははっきりと彼女の戸惑う顔を覚えているのだ)隼人はその日の授業が終わると直ぐにの席へと行き彼女の腕を掴んだ。
 白くて、細い木のようにか細い彼女の腕に思わず隼人は息を呑んだがそれを隠すように振り替えることもなく彼女の手を引いてずんずんと教室を抜け出た。いつもじゃれ合っているような二人なのでクラスメイトはさほど気にも留めず放課後の予定を有意義に過ごす準備をし始めた。
「隼人……!」
 後ろから、叫ぶように彼女が声を張り上げた。その声にハヤトは急に頬が熱を持ったのを感じた。
(俺は、何をしているんだ?)
 その熱はこのか細い腕を持っている手に伝わりいずれ彼女に知れてしまうのではないか?と、何故かありもしない恐怖を感じ隼人は彼女の腕を自分の手から解き放った。と、同時にひゅうっと風が吹き、何も繋がらない二人の間を冷たく通っていった。
 ドアを開いて、気が着けば屋上だった――
 は瞳を泳がせていた。まるで隼人を見るのが恐ろしいようだ。
(実際そうなんだろうけど)
、本当の事を聞かせて」
「何、を」
 むかむかと頬に募っていた熱は頭に広がってきた、怒りにも似た苛立ちを感じながら、隼人はドアを閉め、その前に彼女を押し付けるように手に力を込め肩を握った。ガシャン――と、錆びたドアの金属音が辺りに虚しく響く。抑えられたの肩からは密かに震えが伝わるが、今の隼人はそれ所ではなかった。
「わかってるだろう?朝のあいつ――深崎って奴の事だよ」
「お父さんのお姉さんの――」
「息子とはキスするの?」
 躊躇いも無く放たれた単語には俯くように顔を伏せ、頬を密かに染める。改めてみる彼女のそんな仕草が可愛らしくもあったが同時に憎らしい感情が今は吹き出ている。

 彼女は唇を噛み締め、何かを耐えているような痛い顔をした。
「きっと知ってるだろうけど、」
 隼人の声のトーンはそこでふっと低く音色が変わった。突然目の前で俯くように顔を伏せた彼に、同じようにしていたは恐る恐る顔を挙げた。茶色い髪が屋上を遊ぶ風にさらさらと揺れ、太陽に反射しての黒い瞳へと入ってゆく。眩しさに目を細めていると、隼人は顔を伏せたまま突然、を挟み込むようにバンッ――と、手を置き――倒れるように彼女の肩口に顔を埋めた。
(どうして……?)
 突然の熱に、香りには頭がクラクラと混乱するのを感じた。肩に掛かる彼の頭はきっと重いだろうに今は何の感触も無いのが不思議だった。
「好きだよ。が」
 耳元に聞こえる囁きに、はぎゅっと唇を噛み締めた。そこで隼人の顔がふっと上がる目の前十センチ程の距離――いつもこうして顔を覗く深崎がの脳裏に茫然と蘇る。隼人はの顔を見て、そしてふっと笑った。眉間に皺のよった、何だか変な笑い方だった。
(辺り際のないその性格が、笑うと眩しいその顔が)
 大好きだった、と隼人は心の中で唱える。今この場で口に出したら彼女はどう反応するだろうか、と考えながら。そして、彼女の表情を見る。あぁ、やっぱり――駄目だ。と隼人は思った。
(ちくしょう)
 頭の中に一言浮かんで、今朝会ったあの男を殴りたい気持ちになった。そうして彼女を――を攫って、小さな家に、二人で一緒に暮らすんだ……(あぁ、とんだ夢物語だな)
「隼人……」
 低くに名前を呼ばれ、隼人は再び頬に熱を感じる。
「わかってるよ…言わなくてもいい」
(ちくしょう)
「ごめんなさい…」
(ちくしょう)(好きだ。本当に)
 隼人はそのまま屋上に残ることにした。
(この状態で帰れないよな)
 「先に帰って」と一言、彼女に伝えると彼女は心配そうに彼を何度も振り返る。

その小さな背中が余韻を残して消えていく。
(あぁ、駄目だって)
 小さくそう呟くと同時に隼人は自分でも気付かずに走りだしていた。そうして屋上を下る階段をゆっくりと下りる彼女の肩を勢い良く掴んでその腕に抱きしめた。短く悲鳴を上げて、は容易くその腕に収まった。
「ごめん!」
 必死に頼み込むような切なる声で隼人は言った。幼い頃から抱いていた彼女への長い長い恋心――隼人は必死だった。
 隼人は彼女を手繰り寄せるかのようにこちらへと向けた。驚きに見開いた瞳が隼人のブラウンに霞むように写る。隼人は、彼女の方を引き――触れるようにその――前髪に口付けた。
「ごめん…」
 隼人はしょんぼりとそう呟いて屋上とは間反対の方向へと走り去っていた。
 茫然と立ち尽くし、は乱れた髪をくしゃりと指に絡めた。すっと前髪に触れ、何故かふと思い出したのは隼人ではなく――あの深崎藤矢だった。



  あなたの口付けでも、思い出すのは彼の口付け
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