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5.可愛いあの子にくちづけを
 苦しくなるのは目に見えていた。
 昔からいつも損得考え動く人間だから、確信を持たないと動かないだろうと――自らを信じていた自分が浅はかだった。
 あやまってくれなくていい、なにより自分が許せないから。

*

「――です!」
「え?」
 力の強められた語尾に、反応して深崎はふっと目覚めたように意識を覚醒させる。例の新堂に彼女とのキスを見せ付けた後――今彼の居るのは人気の無い廊下の片隅。目の前には一人の女子生徒。長い黒髪を癖なのか、指先でもじもじと弄りながらちらりと何度も藤矢に目配せしている。
「私、好きだったんです。本当に、ずっと前から――深崎先輩。あの、私と付き合ってもらえませんか?」
 それは紛れも無い、告白の言葉だった。深崎は困ったように眉を寄せた苦笑顔で答えた。
「ごめんね」
 その一言で、少女はぶわっと瞳を潤わせた。彼女が悔しそうに唇を噛み締めるのを見て、深崎はふと――これはの癖だな、と思った。
「今は部活に専念したいから」
「今っていつまでですか?」
「それは――」
 参ったな、と深崎の顔から笑みが消える。せっかく優しい言葉で返してあげようと言うのにどうしてこうも首を突っ込みたがるのだろう――と、内心で軽いため息を吐きながら。
「付き合わなくてもいいです。それならキスして下さい!」
「は?」
 呆けた声を出して、深崎は少女を見た。先ほどまでにこにこと笑っていた少女のその瞳は今では闘気に満ちたように深崎を睨み上げている。これは、まずい――と、心のうちで藤矢は思う。
「いいでしょう?先輩にはどうせ、好きな人なんて居ないんでしょう?」
 "どうせ"だって?と、ピクリと深崎の眉が上がる。この少女は僕が物語りの中の穢れの無い清楚な王子様のような存在とだとでも思っているのだろうか?だとしたらとんだ思い過ごしだ。

「居るよ。大好きな人」
 深崎の言葉に、今度はぴくりと少女の身体が固まる。嘘でしょうとでも言いたげに目を見開いたその表情は深崎の瞳に酷く滑稽に写る。
「君は何を勘違いしてるか知らないけど。僕だって好きな人が居る。その人とキスをしたいと思う――ボランティアで君と安いキスなんかしたくもない」
 それがねじ込んだような思いでも、
「そんな――」
 言葉を失った名前も知らない女学生を後ろに、深崎はその場を後にした。

――キスをしようか?君の嫌いな男と――

つい先日。雨の迎えの車の中で彼女に囁いた言葉がふと思い浮かんだ。
あの女生徒が無理やりにでも、自分に口付けしたら――どう思っただろう?
彼女は――は、僕のキスで何を思うのだろう?
好きでもない人との口付けを、どう思う?

*

 いつもの悪夢を見て、はがばりと身を起こした。
「あ、起きた?」
緩い声がかかってきた。そちらを見ると、深崎が一冊の厚い本を片手に――目線をに向けていた。
「怖い夢でも見たの?」
はソファの上でふるふると首を振った。彼女にとって怖いものとは下手な悪夢なんかよりも自分なのかもしれない、と深崎は思った。けれども、けして口にはしない。起き上がった彼女の隣に深崎は自然と腰を下ろした。

「僕は魔王なんだろうな」
見落とされそうなほど、小さく呟かれた声をは聞き逃さなかった。けれども意味の分からない彼の言葉にはおそるおそる隣に座る彼に視線を向ける。深崎は天井を仰ぐように首を挙げ、遠い目をしていた。
「勇者から、姫を連れ去った――悪の魔王」
ふっと笑い――表情を消してから深崎は掌を瞼の上に乗せた。疲れているのだろうか?と、思いは彼の顔をゆっくりと覗き込む。いつもの彼らしからぬ――どこか、萎れた花のような儚さを感じる。

「藤矢」

 呟かれた名前に、深崎は掌の下で目をうっすらと開いた。隙間を空けてそこの光景を見ると、覗き込むようにこちらへ寄りかかるの姿が映る。

ぎゅっと――深崎は彼女を引き寄せた。ただただこの腕に収めたくて、ただただ温もりを感じたくて彼女を引き寄せた。彼の抱擁には驚くように目を見開いたが、抵抗することせずに彼の腕に収まりぎゅっと胸の前で掌を握りしめた。

「ごめんね」
 そう言った彼の表情は抱きかかえられたから見えることは無いが、肩に落ちた冷たい雫には息を呑み――そして、腕を伸ばし彼の背を引き寄せた。



  可愛いあの子にくちづけを――ねぇ、今なら許してくれる?
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