3:レルムの村


 思えば。
 この世界でタナ以外の人間を見るのは初めてだった。

 ガサリとした音に振り返ると、そこには一人の男が居た。若い顔立ちで、温厚そうな顔、けれども身体には念入りに防具が着けられており、右手には木製であろう槍が握られていた。見ようによっては「今すぐに戦おう!」という格好に見えない事もない。
「あ」
 と、先に声を上げたのはだった。怯えたように、かすれた声。男のやりに怯えるその様はまるで――獣のようだった。は男を見て、男もを見た。数秒間二人の間に沈黙が流れた。とてもじゃないが、心地の良いものではない。だんだんとその空気に耐えかねるようには自分の呼吸が荒くなっていくのに気付いた。
 息が苦しい――早くここから逃げ出したい!
「あの」
 思ったよりも低い声を男が発した。急なことなので、は座り込んだ体のままビクリと身を震わした。よくよく見れば、は何とも不恰好ないでたちだった。タナの与えてくれた真っ白なブラウスを着ていたが、草や木に引っ掛けてその布は所々に皮膚を覗かせていたし、茶色い染みも少なくはなかった。そして、何よりその顔は涙で酷くぐしゃぐしゃになっていた。目と鼻は真っ赤になっていて、靴を履いていない足の裏からは痛々しく血が滲んでいた。
それを見て、男は眉を寄せた。
「あの」
「いやだ――来ないで!」
 まるで泣くようには叫んだ。ボロボロの少女からまさかこんなに大きな声は出るまいと思っていたのか、罵声を浴びた青年は予想通り、ひどく驚いたようにキョトンとした目をして見せた。そして、次に苦笑して「困りましたね」と呟いた。よくよく見て気付いたが、青年は何とも不思議な髪の色をしている。ちょうど今の濃い空の色のような青い髪の毛だ。
「どうして行ってはいけないんです?」
「そんなの、知らないわよ!」
「何を怒ってるんですか、貴方は」
「どうして、貴方にそれを言わなくちゃいけないのよ!」
「ごもっともです。言いたくなければ、言わなくとも結構ですよ。追求する気はありませんし」
そう言って、男は立ったまま一歩も動かずとの対話を続けた。
 彼の青い髪の毛を見て、ふと思った。この世界は私達の世界のように特定の髪の色や瞳の色が決まっているわけではないのだろうか?そういえば、タナの瞳は春に咲く花の色に良く似た綺麗な藤紫色だった。再び彼の事を思い出すと、無意識にまた涙が頬を伝った。
 タナの事を思うと、酷く身体が、心が、痛む。

 カラン、と軽い音がした。
 はっと瞳を擦って、前を見てみると、男が装備していた槍を地面に落としていた。分厚そうな革の手袋も外している。いや、それどころかの方へ歩いて来ている――!
「来ないでってば!」
「嫌です。そんなに傷を負ってる人をただ見ておけと言うんですか?」
「私に触らないで!」
「そんな事を言っても、泣いてるじゃないですか。痛いんでしょう、傷が?」
「だから何。泣いてるわよ、悪かったわね!」
「いえ、別に悪いというわけでは――」
 半ば、投げ出すように言うに男はたじろいだような表情をしたもの、すでに彼女の目前にまで歩み寄っていた。彼は膝を折り、彼女の黒い目と高さを会わせた。そして、にこりと目を細めて笑みをつくりするっとの膝と肩の下に素早く手を差し入れた。
 突然の浮遊感に、は小さく悲鳴を上げる。
「すみません。でも、その足じゃお辛いでしょう」
「い、嫌…!」
「嫌でしょうが我慢して下さい。僕の家は直ぐそこですから」
 そうしては半ば連れ去られるように青い髪をした青年に抱きかかえられ彼の家へと入ることになった。

 男がを抱えて歩むたび、ズキンズキンと心が痛むのを感じた。何故だかはわからない。けれども、罪悪感に似たような思いがの顔を密かに歪ませるのだ。木造のその家のドアを男はを乗せたまま肩で押し開けた。ぎぎぎっときしむ音がして扉が開くと、檜の蒸すような香りがつんっとの鼻で感じ取れた。
軽くを抱え直し、男は部屋にある椅子を目にし――そこにをちょこんと乗せた。
「すみません。こんな椅子しかなくて」
「ごめんなさい」
 即座にはそう返した。
 椅子に座って冷静になって思ってみたのだ。どうしてあんなに親切にしてくれる人を怒鳴り散らしてしまったのだろうか、と。苦い顔をして、俯く少女を見て、けれども青年は穏やかに口元を上げて見せた。まるで気にしていないといったそぶりだ。
「少し気が荒れてたの。その、色々とあって……私」
「いいですよ理由なんて言わなくても。僕は気にしてませんから」
「ごめんなさい」
「謝罪をしなくてもいいんです。一人にしてと言う貴方を放っておけなかった僕が勝手なんですから。悪いのは僕のほうですよ」
 青年の言葉にはふるふると首を振った。
「悪くなんかないわ。実は手や足が痛くて堪らないの。我慢してたけど血は止まらないし――本当に、ありがとう」
 ありがとう、とは少年に初めて笑んで見せた。それを見て、青年も返すように微笑む。とても穏やかなその笑みは、いつかのタナのように優しいものだった。
 だが、次の瞬間に二人が入ってきた木造の扉からバンッ―――という大きな音が飛び出した。がそこに視線を向けると、助けてくれた男そっくりな青年がものすごい形相でそこに居た。彼はぎょろりと鋭い目で辺りを睨みまわし、と男に視線を向けるとぐにゃりと顔を歪めた。
 何故だかはわからないけれども、先刻のように立ちすくし。
はこの男の真紅の髪から目を放せなかった。
「誰だ。そいつは」
 顔はそっくりだが、この赤い髪の青年は青い髪の青年とは異なった穏やかではないトーンの声を持っていた。その声があたりに響いただけで、一瞬温度が下がったかのような錯覚に陥るのをは感じた。男がそう問いかけたのに、青い髪の――を助けてくれた青年は彼の方へと目を向けると、困った顔もせずにこりとしたしまりの無い顔のままその人に返した。
「森で倒れていたんだ」
「森で?」
 そう言って男は肩に乗った何かを自分の肩の上で軽く浮かせて見せた。何だろう、とても重そうな――斧!青年の持っている物に気付き、はサーっと血の気が引くのを感じた。そのようすに、青髪の青年が気付き「大丈夫ですか?」との肩を揺する。
「リューグ。早くそれを閉まっておけ。彼女が怯えている」
「へーへー、言われなくともそうしますよ」
 と、小ばかにしたような笑いをしてその赤い髪の青年はズカズカと家の中へと入ってきた。茶色い染みの付いた服に、ぶかぶかの皮の手袋、鈍く光る斧――加えて不機嫌そうなその顔。100人に聞いたら100人が彼の今の表情を怒っていると答えるだろう。けれども、どうして怒っているのかはわからない。
 容姿や会話から察するにこの青い髪の青年と、赤い髪の青年は兄弟のように思える。けれども、ここまで性格が正反対な兄弟は居るものだろうか?と、なんとげなしな疑問がの頭の中に浮かんだ。
「なぁ」
部屋の奥に消えたかと思えば、赤い髪のリューグと呼ばれた青年は直ぐにニヒルな笑みを浮かべ治療に専念をするロッカと、される側のの元へとやってきた。
突然背中から声を掛けられ、の足の裏に包帯を巻きつけていたロッカはあっとそれを床に転がしてしまった。
「怪我したそいつの手当てをしてるみていだけどよぉ、ロッカ。考えてみな。その怪我は本当の怪我か?――この前も居ただろう。アメルの力を受けるためにと、そこの森林でわざと木を削って腕にぶっ刺した馬鹿な男が。血まみれになった挙句、急かしてアメルに直してもらって。ついでとばかりにてめぇの兄弟の治療まで頼んだ男が居ただろう?その女もその手の奴かも知れねぇ。被害者の面して、その内"聖女に会わせろ"って言うにきまってる。何でも信じるそのお人よしで、兄貴は騙されてるかもしんねぇぜ」
 一気にまくし立てられた言葉に、最初は何を言われたのかもロッカも分からなかった。口角を上げたまま、リューグはふっと椅子に座るを見下ろした。だが数秒たって反応をしめしたのは、ではなく青い髪の――ロッカと呼ばれた青年だった。
「彼女は、違う」
「分かるのかよ。お前に」
「分からないさ。だけど、お前のその言い分もただの推測でしかないだろう。そうやって、何でもかんでも疑って退けるのはお前の悪い癖だ。もっと視野を広く持ってみろ」
 ロッカがそう言うと、リューグはあからさまに顔を歪めて見せた。そして、じっととロッカを交互に睨みあげる。今になって気付いたが、彼がこの家の門を開けてからは一度も言葉を発してない。否、彼のその空気がが言葉を発するのを禁じているのだ。
「どういう意味の"だんまり"だろうな、それは。図星か、それとも俺への嫌悪か?」
「リューグ!」
「うるせぇよ。馬鹿兄貴。あぁ、もう勝手にしな。俺は、どうなっても知らねぇ」
 ふんっと荒く息を吐き、リューグはそう言った。そうして、今度は何の装備もせずに玄関のドアへづかづかと向かう。それを見て彼の潜りざまに、ロッカが言う。「何処へ行くのか?」と。すると、リューグ――彼はチラリと後ろを振り返った。その瞬間、ほんの一瞬だがは彼と視線があったのを感じた。
 この目は酷く強い―――嫌悪だ。

「どこでもない。散歩だ」
「それなら、」
 と、ロッカが言いかけたがそれを背中を向けたリューグが遮った。
「うるせぇな、ジジイを呼んでくればいいんだろ」
「あぁ、頼む」
「めんどくせぇな」
 草を踏みしめる、小さな足音が聞こえなくなり、は始めて空気を吸い込んだ気持ちになった。どうしてあんなに息苦しかったのかは自分でもわからない。そして、ロッカもやっと動き出した。彼は、先ほどテーブルの下に落とした包帯をすっと拾い上げた。
「あぁは見えても。やることはやってくれるんですよ」
「ロッカさんの…兄弟、なんですか?」
 久々に声を出し、はロッカを見上げた。そして見上げた後の彼の顔で気付いた。
 馴れ馴れしくも彼の名前を呼んでしまったことを!
「ご、ごめんなさい!私」
「あぁ、いいえ。構わないですよ。ただちょっと驚きましたけど。"さん"づけなんて女性にされた記憶がなかったもので。それに、僕のことは"ロッカ"と呼んでくださって構いませんから」
 思ったよりも、柔らかな彼の反応には困ってしまった。恥ずかしさで赤くなった顔を隠そうとはほんの少し俯いてみた。
「はぁ、すみません」
「謝り癖のある人ですね。見たところ僕とそんなに年も変わらないようですけど?敬語なんて必要ありませんよ。"ありがとうございます"も"ありがとう"で結構ですから。そのほうがきっとお互いに気が楽だと思うんです」
「そ、それじゃぁ…質問をしても?」
「かまいませんよ」
 照れくさそうにはにかんで、はふっと伏せていた顔を上げた。少女が思ったよりも明るい顔になっていたのでロッカはそれをみて安心した。
「さっきの人は、ロッカの兄弟?」
「ええ。リューグは…あいつとは兄弟で、僕の方が兄です」
「あぁ、ロッカはお兄さんって感じがする」
 が笑ってそう言うと、ロッカも口角を上げて「そうですか」と言った。
「意外とリューグのほうが面倒見がいいんですよ。動物を世話するにも、人を扱うにも。アメル――僕の妹なんですけどね、あの子もとてもしっかりしていて。僕なんかこの家じゃ本当に威厳も何もあったもんじゃないですよ」
「そう、でも。わたしには貴方がお兄さんに見えた」
「そうですか。なんだかそう言ってもらえると嬉しいです」
 少し頬を染めて、ロッカは声を高くした。兄と呼ばれることが彼にとってはこんなにも嬉しいことなのだろうか。簡易な治療を終えは改めて、部屋を見回した。どうしてだろう。暖かな日差しの射す木造の家には、どこか懐かしい空気を覚えてしょうがなかった。タナと暮らした家もここのように豊かな自然に囲まれていた。
「とても素敵な家ね。羨ましい。ここには、貴方と彼――リューグと、妹さんと――家族と暮らしているの?」
「ええ。父と母は幼い頃に亡くしました。あぁ、気にしないで下さい。いまさら感傷に浸るなんて事は無いですから」
 亡くした――という言葉を受け、何か言いたげなにロッカは直ぐに言った。
「気にしないで下さい、本当に」
「ごめんなさい」
「ほら、また謝ってる」
 笑ってそう返すロッカに、も微笑んだ。

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