2:レルムの村 切り離されたのか あるいは踏み外してしまったのか―― 藤色の柔らかな瞳、艶めく長い黒髪の青年。木漏れ日の照る森の中、私は彼に拾われた。 始めは本当に何も知らなかった。この国の言葉も、政治も、人種も――召還術という力のことも。目覚めたベットの上で、けれどこの国の言葉を一つも喋れない私を見て男はどうしてか厄介ごとに巻き込まれたような表情はちらとも見せなかった。穏やかな笑みで、はじめは彼自身を指差しそうしてひどく優しい声で言ったのだ。 『タナス――いや、タナでいい。それが僕の名前』 その世界ではじめて得た言葉。 「タ、ナ…?」 タナ――タナ。あぁ、男の口から漏れるそれはきっと彼の名だ。 私はその世界で始めて微笑み、その人の名前をそっと胸に閉まった。そんな私を見て、彼も藤紫の瞳をやんわりと細めた。 月日が流れ、あの日から三度目の春が来た。 「お別れだ」 「タナ?」 別れは唐突にやって来た。タナの言葉には目を見開き、彼の名を呼んだ。何を言ってるのだろうか、だが私がたいして騒がなかったのはあまりに現実味が無かったからだ。 「僕はもうここに居られない。まだしなくてはならない事があるから」 「タナ、どうして。私はあなたといては駄目なの?」 「駄目だよ。ごめんね、だけど僕は君を思ってるから」 うすらと笑う、藤紫の瞳。優しいその瞳は、今はもの悲しく微笑むだけ。 空に、影が出来た。 いつかタナに教えてもらった召還術で知ったレヴァティーンという異世界の大竜――― ヒラリとマントをはためかせ、彼はその竜へ歩み寄った。 いやだ、いやだ、行かないで。 一人にしないで。 「。君はもう大丈夫だ。この世界で生きてゆける」 「いやだ。だめ、私は独りじゃ生きていけない」 「君はもう、三年前のように無知じゃない。泣けるようになった、笑うことが出来るようになった。歩くんだ。少しずつでもいい。君の力でこの世界の地を踏み、この世界を知ってごらん」 「タナ、タナ」 「そう、それは君が最初に言ったこの世界の言葉。僕の名前だ」 思いを馳せるように、彼はそう言った。 優しい声、優しい瞳、大好きだったその全てがけれども今は残酷なものにしか思えなくて仕方が無い。どうして笑っていられるの?私と離れられて嬉しいの?私は、私は、 「、」 は自分の名を呼ばれると、いつも笑って彼に駆け寄っていた。 けれども今はただ震える唇をかみ締め、濡れた目で彼を見つめることしかしなかった。否、出来なかったのだ。それしか。 「、言葉を忘れないで。それがきっと意味を成す時がある。僕の名も、君の名も確かにこの世に存在して、意味のあるものなんだ。僕達に意味があるようにね。それを信じて」 「わからない、わからないわ、そんなの」 「わからないなら知ればいい。それが君の歩む道へとつながってくはずだから」 「タナ、」 ボロボロと瞳から涙が落ちる。 ねぇ、お願い。タナ、タナ、 どうか、私を捨てないで。捨てないで欲しい。一人に、この世界においていかないで欲しい。 でなければ、私は孤独で死んでしまう。 「泣かないで、愛しい人」 彼は竜に乗り、上半身を折って、私に額を近づけた。サラリと落ちる、私と似た黒い髪。やさしく細められた藤紫の瞳。全部。全部、大好きだった。 彼は私の髪を上げ、そっと額に口付けた。 ふわり、と香る花のような匂いに不思議と言葉を失った。全てを悟った――― もう駄目なのだ。 彼は行ってしまう。 私をここに残して。 「いつかきっと、迎えに行くから」 彼が乗った竜が視界から消えたとたん。 何かのスイッチが入ったかのように、私は走り出した。 (彼の触れた額がまだ熱い) 「タナ、タナ、タナ――」 走っていた、彼とよく言った木立の並ぶ自然へ。 そして、気が付けば、そこに居た。私が始めてこの世界に降り立った場所。私が始めて彼に会った場所。 それに気づき、初めて私はふっと歩みを止めた。 「タナ、」 解けない執着心。 だって、私にとってこの世は彼が全てだったから。これは――仕方の無い思いなのだ。 彼が教えてくれた花の名前も、召還術という魔法も、剣を降る方法よりも、私に大切だったのは彼という存在だったから、 呆然と立ち尽くしていた。だが、突然後ろから大きな風が吹きつけ私は後ろを振り返ることになった。そして、そこにあったものを見て、はますます混乱に引き込まれる。 ――そこにあるのは一冊の古びた本、 「どうして」 "アレ"があるのだ。 私をこの世界に巻き込んだあの"白い本"が。 の後ろにあるのは薄く広がる緑の地、そしてその上に異物感を覚えてしょうがない――いつかの白い本がある。白い紙に、インクを落としたかのように、深い感情がの奥底から溢れ出てきた。それはとても激しく、けれども静かな怒り。 はゆっくりと、そこへ歩み寄り。ストンと、軸の抜けたように座り込んだ。 「全部、この…本の、せい」 こんなに苦しいのなら、 彼が居ないのなら。もう、どうなってもいい、そういう思いがあったのかもしれない。何の準備も無しに、はその本の表紙にふれ、いつかのようにそっと持ち上げた。 瞬間――― 白い光が森を覆った。 「タナ、」 (この本の先が貴方の居る場所なら) (私の元居たあの世界なら) 全てが、夢ではないかと思った。 その場所はあまりにも、数秒前に自分の居た場所に酷似していたから。 「また、飛ばされたの?」 私の知らない世界に? それとも、戻ってきたの? まさか、ただ眠ってしまっただけ? 呆然と、そこに膝を突いていると――先ほどのタナとの行いが薄らとした映像で頭の中に浮かんできた。それが余りにも、ぼんやりとした記憶なので、もしかしてさっきのは全て夢の中での事だったのだろうか?とも思ったが、それはただの希望でしかなく事実はもっと残酷なものだった。確かにタナはに別れを告げ、大竜でこの地がら飛び立っていったのだ。 そこまで思い出して、はポロリと瞳から涙を落とした。こういうものはどうしてだろう、一旦出てしまうと歯止めが利かない。 いまだ嘗て、こんなに別れを惜しむことは無かった。こんなにつらい涙を流したことは無かった。こんなに胸の痛むことはなかった。全てが始めての感情で、あまりにも痛いものであった。 不細工にずびっと鼻を啜ると、後ろからガサリと葉の蠢く音がした。 「…タ、ナ?」 そうであって欲しい、との願いで呟いた。 けれども茂みの奥から現れたのはタナでも獣でもなく、まったく予想だにしなかった姿の―――一人の男。 |