1:opening


 照りつける太陽に、ふと、夏を感じた。
 じりじりと身体に射すその光線。憎らしげに、空を見上げても、けれども太陽は毅然とそこにあり。その当たり前の事実が、再び私をうだるような気分にさせた。自転車の中には学校指定の大きな鞄が一つ。ファスナーが少し開いたそこからは、学校の図書室から借りたばかりの真新しい本やら、くたびれた教科書なんかが覗いている。チラリとそれを一眼して、は少しペダルに掛ける力を増やした。

自転車に乗っている、少女の名前は「」。
今年高校受験を控えた、中学三年生の女子である。風貌は別段、優れているわけでも、かと言って劣っているわけではない。可愛らしいといえばそれなりだが、見る人によってはそれなりとしか言ってはもらえないかもしれない。けれど、彼女が自転車に乗ると、少し長めの美しい黒髪がふわりと風に舞って揺れていく。その爽やかな光景は、だれもが好感を持つもつような清々しいものだった。

 はっと、気が付くと。眩しかった太陽は傾き、紅の夕日へと変化していた。いつのまに、と言えばいつのまになのだが。確かに自転車で通うの家は一時間以上は掛かる遠い所に在る。だが、が来ていたのは家ではなく図書館だった。「どうして、ここに来たのだろう」と思うと同時に、「本が好きだから無意識に来たのだろう」という答えが浮かんだ。四角い殺風景なその建物をチラリと見てふと、この時間帯に来るのは初めてかもしれないと思った。そして、思いながら建物の中へとは向かった。
 設備の整った場所だ。だから、は好んでここに来ている。
 学校帰りや、土日の時間。それは、様々な時で。図書室に足を踏み入れた。夕方という時間帯からか、館内には司書の人を含めても三、四人の人影しか見当たらない。カウンターに居る髪の短い女性がに二コリと笑いかけてきた(おそらく何度も通っているので、NAMETの顔を覚えていたのだろう)対し、は彼女に小さく会釈を返し逃げるようにそそくさと奥の本棚へと向かった。
 別に人付き合いが苦手と言うわけではない。ただ人並みに、人見知りをしたというわけだ。と、なぜか私は頭の中で今の出来事を反芻した。

 こんな場所があったのか、

 歴史の在る様に見える木造の高い本棚。見上げれば、いつだったかテレビでみたイギリスの図書館の事を思い出した。少し視線を泳がすと、奥の方に高い所の本を取る為であろう梯子があるのに気づいた。は無意識にそこに行き、それにそっと手を触れた。ひんやりと影にあった木の冷たさが掌に伝わる。温度に反して、暖かい気持ちのようなものを感じる。 NAMETはふっと本棚の上を見上げた。ボロボロの、けれど所々に真新しい本が差し込んである。

 中央にある、白い本が何故か沙友里の目に留まった。

(あれは何?)

 本である事に、代わりは無いのだが。そんな疑問が浮かんだ。その本の背表紙にはタイトルの文字が無く、ただ白かったから。"題名の無い本"なんて、の知識には今まで無かったのだ。
興味のようなものが、自分の奥から突き上げるのを感じた。は梯子を見て、そして白い本を見た。

(あれは何?)

 わからない。だから、興味が沸く。
 気が付けば、足を掛けていた梯子がギシリと音を立てていた。
そっと、手を伸ばす。一般的な大きさのその本を手にとって見たが、やはり背表紙だけでなく表紙にも"題名"というものは無かった。つ、っと指を表紙に滑らす。日焼けか、年費のためか、黄ばみが少し目立つようだった。高い位置で梯子に座ったまま、はその本の表紙に手を掛けた。

風に浮くように、それは簡単に開き、瞬間


はこの世界から消えていた。


 暗闇だ。
 呑み込まれそうなほどの、深い、暗い闇―――

 ここがどこなのだかは分からない。は深い深い闇の中、あるいは黒い空間に居た。
(私は、たしか図書館に居たはず)
 たしかに、そうなのだ。否、そうだったのだ、が。今自分の居るこの場所は同考えてみてもその場所には思えない。言いようのない不安が急にに押し寄せた。地面があることを頼りに、数歩進んでみたが、先の見えない不安にそれはすぐに終わってしまい、ついにはへたりと座り込んでしまった。
(いやだ、いやだ)
 顔を強張らせて、自分の肩を抱えた。
(何なの、これは!訳が分からない!)
 学校での友達、優しかった両親。それが心の叫びとともにの頭を駆け抜ける。前を見据える気力も、勇気も次第に薄れてゆく。一体ここは何処で、私はどうしてここに。
 不安に襲われる中、一つの声が聞こえた。

『聞こえている?聞いてくれてる?』

「――(いまのは)!?」
 沙友里はいつのまにか伏せていた顔をはっと上げた。確かに今、声が――聞こえた。でも、一体どこから?誰が?誰に?私に?
 聞こえた声は、小さな希望であったが新たな不安でもあった。は唇を噛み締めながら、懸命に闇に目を凝らした。耳を澄ました。
『怯えないで。信じていて』
「誰――!?」
問いかけた、の声は密かに震えていた。
『私は、私。誰でもないわ。あなたが良く知っている一人の人間。教えられるのはここまで』
「……」
誰?私が、よく知っている?
疑問を浮かべながらも、その声の情報を頼りには過去に出会った人物の記憶を反芻した。一体、誰が―――

『オイ、』
「ぎゃっ!?」

 叫び声を上げ、はびくりと身を震わした。声が聞こえた――!今度は、さっきと違う声が、後ろから。
『色気無ぇ、叫び声だな』
「……な」
 後ろを振り返ったは呆然とした。予想もしなかった人物(否、人には見えないが)が居たのだ。少年のような容姿のそれが、少年らしからぬ表情でを見ている。
 天にとがった耳に、真っ赤に光っている大きな釣り目、尖った八重歯――さらに、幾重もベルトを重ねてる右手には少年の体よりも大きな槍のような物が握られていた。
 暗い空間でなぜこんなにはっきりと少年の姿が見えるのだろうか、と漠然とした意識のなかでふとは思った。
「おい、手を貸せ」
 少年はに言って跪き彼女に目線を合わせ、槍を持っていない方の手を差し出した。だが、はその手を見て、取ることを躊躇う。道案内をしてくれるとでも言うのだろうか、この少年を信じてもいいのだろうか?
「貴方は誰?」
「バルレル、それが今の名だ」
「バルレル、あなたを信じてもいいの?」
「それはお前が決めることだ。おれは強要する気は無い」
ドクンと、心臓が波打った。在り得ない現実に、今やっと心臓が反応を見せたようだった。

『信じる勇気を持ちたい』

 再び声が響いた。それを聞いて、は無意識に少年の手に掌を重ねていた。
 それを確認して少年はニヤリと笑う。少年の笑った口の隙間から見える八重歯がなんともかわいらしくて、思わずはふっと笑む。
「オイ」
 手を引き、歩きながら少年はぶっきらぼうにそう発した。
 振り返って、そして再び八重歯を私に見せた。

「俺は、お前を待っているからな。ずっと」

 声が響いた。空間に今度は光が―――広がる。
 眩しい。目を閉じる。
 ぐっと手を引かれる。
 ねぇ、私は、一体どこへ?



 鳥の囀り。
 木漏れ日の陽。
うつらとした意識の中、はその音その景色を確認した。あぁ、眩しい。眩しい。と、沙友里は目を閉じる。ガサリと葉を掻き分けるような音がした。
『どうか、しましたか?』
 声が聞こえる。優しい声が。けれど、何を言っているの?
『疲れてるようですね、いいですよ。おやすみなさい。』
 優しい声が聞こえる。声が。声の主はそっと草原に寝転ぶに跪き、彼女の瞼に手を乗せた。その動作が酷く優しく、無意識に閉じたの瞳から涙が出た。ゆっくりと。ゆっくりと。温もりがを包み込む。暖かい。
そうして一旦、彼女は深い眠りに落ちた。


 落とされた世界の名はリィンバウム。

 契約によって四界と結ばれた楽園とよばれる、その世界。
 私の世界とは異なった世界。

 世界から切り離されたかのように、私の存在は受け入れられてないようだった。言葉も、常識も通じず、私だけが異質な存在のように――浮ききっていた。それが悲しく、何度泣き出したことか――けれどもその度、熱くなった瞼にそっと掌を置いてくれる人が居た。

私の瞼にそっと手を置いたひと。
私に全てを教えてくれた人。

 タナ、
 タナ。貴方の名は――呼ぶだけで胸が締め付けられそうに痛いの。

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