序章 いらぬ拾い者 その日の茨は実に数ヶ月ぶりにもなる休暇を取っていた。ついこの間までは羽林軍という精鋭出世組の中で働いていたと静蘭は、その実力があるにもかかわらず米倉番人というしがない仕事へと逆戻りしていた。周囲の者たちが何故?と不思議そうに返すのに、二人は顔を見合してさも当然とこう答える。 「秀麗さま(お嬢様)のご飯が食べれなくなるのだけはいやだ」、と。 主人に対する愛ゆえなのか、その二人以外には中々理解し難い理由だが、別に秀麗も邵可も二人を咎めなかった。結局は彼等と晩餐を共にしたいのは二人も同じだったのだ。 さて、そういうわけでは今日非番だ。 だが、非番にも関わらず働き者の彼女はいつもの通り得意の裁縫で作った刺繍入りの手拭を売りに出ていた。思ったよりも好調に売れた印の手の中の小銭を見て、秀麗の喜ぶ顔を思いながらは爛々とした足取りで家へ向かっていた。 「…あれ?」 黒い目をぱちぱちと何度も瞬きしては我が目を疑った。目の前にした玄関の前に何か大きなものが転がっているのが見えたのだ。ごしごしと目をこすってみたがその影は消えない。は小銭を懐に忍ばせその"転がっているもの"へと歩み寄った。 「…人、だよね」 自身の無い呟きだが、確かにそこに転がるのは人であった。随分と逞しい体をした、けれどこれまた随分とみすぼらしい格好をした男だ。は男の髭もじゃの顔を見て眉を寄せた。そして、とりあえずとその人物の肩を揺すってみる。 「大丈夫ですか?」 「……あー、」 生声を上げて、男はぼんやりと瞳を開いた。濃い色の、けれどもとは違った瞳の深さだった。獣のような風貌をした男はを見て、掠れた声で続けた。 「…すいません。無理ですわ…何か、食いもん」 そして再びぱちりと瞳を閉じる。は彼を起こそうと再び揺すってみたが、まったくといっていいほどに反応が無い。死んでいるのか、眠っているのか――それとも腹が減っているだけなのか。 「…はぁ」 仕方が無い。と、はため息を吐いた。最近はどうやら厄介ごとに遭遇することが多いようだし、この熊男一匹拾ったってたいして変わりはしないだろう。 はぐいっと男を引き起こして、肩を持った。予想外の男の重さに思わずぐらりと揺れそうになるが、仕事関係から普通の女人よりは体力に自身のあるはなんとか足を踏ん張り留まった。 「感謝してくださいよね。秀麗様のご飯を食べれるんだから」 ふらふらと危ない足取りでは門へと入っていった。 「おかえり、。今日は、どうだ――」 調理場に入ってきたを見て――ぽとり、と秀麗の手にあった大根が床に落ちた。床に落ちたそれを見てが「もったいないですよ、秀麗様」と呟けば秀麗ははっとしたように目を見開きと、彼女の支えている男を見てわなわなと震えだした。 「何よ!それ!!」 「玄関に満身創痍といった感じで落ちていましたので、秀麗様ならこうするだろうと思って連れてきました」 にこりと自信満々に言うに秀麗はもうあきれて何もいえなかった。取り合えず食台のある部屋まで連れて来なさいと指示すれば、彼女は「ありがとうございます」と嬉しそうに返事を返して再びよろよろと歩き出した。 「まったく、誰に似たのかしら…」 自分より四つも年上なのに、秀麗は時々を親のような目線で見てしまう。静蘭と同じように彼女が童顔であるのも原因かもしれないし、邵可のように時々頓珍漢な行動に出てしまうのが心配だということもあるかもしれない。 秀麗は床に落ちた大根を拾った。洗えば何とでもないだろうと、その場で軽く砂を払う。そしてちらとの去っていた扉を見る。 「まぁ、今日は客人も来るのだし。大めに作っておいて損はないわよね」 得意のプラス思考に持ち替え、秀麗は腕まくりをして再び包丁を握りなおした。 「――おぁ?」 非常に馨しいその香りに浪燕青はスイッチが入ったようにぱちりと目を開いた。 おいおい。どこだよ、ここは―― 知らない天井にがばりと身を起こせば、椅子を三つ並べた即席寝台上に寝かされていたのだと気づいた。通りで体が痛いはずだ。燕青はよっと慣らすように背を伸ばした。 「あら、起きましたか」 ふと聞こえた声に、燕青はふいっと顔をそちらに向けた。見れば先ほど見たばかりの顔がそこにある。艶めいたさらりとした黒髪。そして黒曜石をあてがった様な神秘的な瞳。すこし人より整った顔立ちをしてはいるが、どこか澄ました風の女だった。この女がここに入れてくれたのだと察した燕青はにかりと人好きされる笑みを作りさっそく挨拶の言葉を述べた。 「いや、ありがとな。助かったよ――あのままじゃ、餓死していた」 さらりと冗談めいた言葉だっだが、それが嘘ではないことを見抜いたは彼の笑みに少し眉を寄せた。 「お礼なら秀麗様に。料理を作ってくれてるのも秀麗様です」 「秀麗…様?ここの姫さんか?」 が頷けば、燕青が驚いたように目を見張る。目の前の女も十分姫に見える容貌であったからうっかりこちらが主人だと見誤ったのだ。 「へぇ。きっと、その姫さん料理美味いんだな。凄ぇ、いい匂いだ」 「当然です」 目を閉じて燕青がその料理を創造すれば、はぴしゃりといい退けた。なんとも気の強い女である。人の扱いには自信のある燕青でさえ、少しばかりだがたじろいだ。 「いいですか、お嬢様の前では礼儀正しくして下さいよ」 「はいはい」 燕青は大人しく従った。こういった相手には下手に反論しないに限ると彼は知っていた。 「――手伝ってくれる」 室の置くからよく通る声が聞こえ少女は立ち上がった。 「はい、ただいま!」 がたがたと忙しなく掛けていくその様子を見て主人の下へ行ったのだとわかる。なんと早い変わり身だろうか。まぁ、出来た家人だってことか。と、燕青は苦笑いした。 「お待ちかね」 表情を綻ばした燕青の前には大皿を丁寧に置いた。出された料理を見て、燕青は「おぉ」と感嘆の声を上げる。牛肉の山椒辛子煮。三種冷菜盛り合わせ。殻付き海老の唐辛子香り炒め。どれもこれもそこらの料理人に負けぬ腕前の品。予想以上の品々を前に燕青はごくりと唾を飲んだ。 「遠慮なく食べてね。まだまだあるから」 奥の方からもう一人、まだ幼さの残る可愛らしい少女がさらに皿を持って現れた。先の少女とは違う黒い髪に黒い瞳の。これが姫さんだな。秀麗を見た燕青はふむ、と顎に手をやりそう決断した。 「ありがとな、姫さん」 いいえ、と秀麗は笑い持っていた皿を横に置いた。それもまた美味しそうな菜。燕青は本当にいい所に救われた、と思わず神に感謝した。 「それじゃぁ、さっそく」 「待って」 箸を上げ、いざ食べん。とばかりに形を取った燕青の前に手をやっては彼の動きを止めた。空にむなしく箸を止め、燕青は何だ。とばかりに恨めしそうに瞳を細めてを見た。 「すぐに油物だと胃を痛めるから先にこの薬草と、お茶を飲んで」 てきぱきとお膳に乗せられていた茶器と、煎じてあった薬草を取り出しは指示した。 思わぬ彼女の気遣いに燕青は目を見開きながらも大人しく従った。だが次の瞬間思わず噴出しそうになる。 「うへっ…苦っ!!」 「良薬は口に苦し」 の言葉に秀麗が頷いた。 「の薬は結構利くわよ。ちなみにそれは消化促進薬」 「あんたが作ったの?良薬なのか、これ……」 苦味を感じ取った舌を出し、燕青は涙目で訴えた。はその言葉に、にこりと綺麗に笑った。 あ、この顔は少し可愛いかもしれない。 思わず燕青はつられて笑いそうになったが、その笑みはすぐさま引きつったものへと変わる。 「お望みなら甘い毒薬を差し上げましょうか」 「…結構です」 前言撤回。燕青は心の内で呟いた。 「それにしても」 机一杯に乗せられた料理を見て、は眉を寄せた。幾らこの熊男が大食いに見えるからと言っても―― 「秀麗様。少し多すぎませんか?」 「そうだな、俺もこんなには食えない」 もぐもぐと口に食べ物を入れながら燕青はの言葉に頷いた。 「あら、もちろん残ることは計算済みよ。今日はお客様が来る日だもの。えーっと……まさか、忘れてるの、?」 「お客、さま?」 はて、何のお客だったか?は視線を空に流した。 「殿――私が来たら、逃げればいいなんて思ってはいないだろうね?」 思い出した!思い出した――思い出した、思い出した、思い出した!! は思わず椅子から立ち上がった。燕青が何だ何だ、と見上げているが彼女は今自分の頭の中で響くあの男の声で精一杯でその視線に気づく余裕も無い。 「思い出したようね…」 秀麗がお茶を啜りながら呟いた。 彼女があまり藍将軍の事を良く思ってないのは傍に居る秀麗や静蘭には既に知れたことだった。静蘭とは違って、それがどんな経緯でのことなのか秀麗は知らないのだけれども。 「秀麗様!私、用事が…!」 「…残念ね、もう来たよみたいよ」 玄関の方が賑わう音に秀麗は溜息を吐いた。彼女の言葉には顔を青くし、そして狭い部屋で必死に逃げ道を探そうと視線を泳がした。 |
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