序章 笑いを知らない少女

 その夫婦の救った少女は笑うということを知らなかった――

 穏やかに目を細め、その女は微笑んだ。黒髪の艶やかさが美しいその女の細腕にはまだ歩くことを覚えたばかりの年端のいかぬ幼い少女が抱えられていた。うとうとと眠りの淵にあるあどけないその表情――それを見ていた男は思わず顔を緩めた。
『ふふ、まさか黎深がそんな顔をする日が来るとはね』
 新たにやってきた男の言葉に、黎深と呼ばれた男は緩んでいた口元をはっと戻した。兄上、と声を上げようとした彼はけれど唖然と口を開いて兄を――否、兄の手で眠る秀麗よりも大きな見知らぬ少女を指差した。
 兄上の腕で眠るとは何とも羨ましい――!!
『疲れて、眠っちゃったんだね』
 動揺を隠すように小さく咳払いをした男はつっと視線を向ける。
『兄上。何ですか、それは…』
『それとは何じゃ。黎深殿、この子はと言う』
 ずばり言ってのけたその女はすすすと滑るように邵可の隣に立ち、その白い指先で邵可の腕で眠る少女の頬を撫でた。いとおしげに撫でるそのしぐさに男は思わずがな言葉を失った。まさか――
『安心せい、黎深殿。この子はわらわ、邵可の子供じゃない――だが、はわらわの大切な者。そしてわらわを追ってここに来た。だから、此処で育てると決めた』
 その言葉に少しほっとした息を吐き、男は邵可の方を見た。静蘭という少年の例があったので彼は驚きはしたもの、非難はしなかった。何より、自分も兄を習って子供を拾った身である。ここで下手に非難すれば何を言ってるんだいとぺしりと額をはたかれるに違いない。
 そしてなにより細君と同じく、邵可もまた抱いている少女を我が子のような目で見ている。少し興味を示したように、男は眠っている少女に目を向けた。気のせいでなければ泣きはらしたように目元が赤く痛々しい。
『この子はもう八つになる。秀麗よりもぐんと大人じゃ――だが、一度も笑うたことがない。ただの一度も。ある意味でこの子は――秀麗よりも幼い』
 その言葉に男は眉を寄せた。八歳になり、一度も笑ったことが無い?ありえない話だ、と。だが目の前の兄嫁は真剣だった。
『泣くことを覚えたのもつい先日のこと。感情を覚えたこの子は忘れぬようにと繰り返すように毎晩泣いて、こうして眠る』
 男は女の腕に抱かれる表情豊かな姪を思い出す――目を見開いたこの娘は姪のように笑って自分を見てくれないのか、とふと思う。
『けれどきっといつか笑顔になる。わらわと邵可そして秀麗に静蘭――勿論そなたも――沢山の愛を受ければ、きっと。きっといつか。この子は可愛い笑顔を見せてくれる。だから、ほら黎深殿、笑顔の練習じゃ!』
『あぁ――そんな大きな声を出すと、が起きちゃうよ』
『おお。すまんの』
 暖かな兄夫婦に囲まれて眠る姪っ子と赤い目元を擦った少女に、彼らに気づかれぬようにと男は小さく頬を緩めた。――いつか笑顔に――この二人のもとならば、それはきっと叶う願いだろう――。
 

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