終章 約束 「もう一月もたったんですね」ふと漏らされたの言葉に秀麗は「早いわねぇ」と遠い目をしながらも頷いた。 「…私ももうこの室を出ていい頃なんですがね」 呟く二人を前にして静蘭は苦笑した。 毒を盛られた秀麗とはその解毒剤があったため比較的早く回復したのだが、静蘭は王直々にこうして宮城の室で一月の治療を受けるよう言われていた。全身激しい殴打を受け、挙げ句自らに刃を立てた静蘭は思ったよりも順調に回復しているようで、も秀麗も安心した。 「謝っておこうと思ってたの。私がもっとしっかりしていれば、」 「そんな事は言わないで下さい」 の言葉に静蘭は首を振った。 「貴方は十分頑張っていた。私がこうして、足を切る決意に思い至ったのも――」 ふいに静蘭は寝台の前に座るの頬に手を伸ばした。いつかの某将軍のことがあるので、はびくりと身を震わしたが静蘭は一瞬彼女の頬に薄く残ったきり傷に触れただけだった。 「貴方のあの姿を見たからだ。それで、私はあの時少し強くなれたのです」 「だけど、」 「いいじゃない。静蘭の言葉を素直に受け取っておきなさい」 素直に、と念押しする秀麗には苦笑しながらも頷いた。 「さて、も静蘭も回復したことだし――父様にももう家にかえってもらってるわ」 邵可にすでに家に帰ってもらうということは、つまりは自分たちの帰宅も近いということだ。秀麗の言葉にも静蘭も僅かに驚いたように彼女を見た。秀麗の物言いはあまりにもあっさりしたものだったからだ。 「よろしいのですか?」 静蘭の言葉に秀麗はこっくりと頷いた。私のするべき事はもう無いのだ、と。 「王は政を始めた。朝廷も動き始めている。私が後宮にいる意味はもう無いわ。…それに、ここは私の居場所じゃないわ」 ふと力の無くなった彼女の物言いに、そういった方面にはとことん疎いでも劉輝のことを思っているのだと悟れた。この一年間いい意味で秀麗と劉輝は交友を深め、そして歩んできていたことをそばで見守っていた静蘭もも知っていた。 「寂しがりますよ」 の微笑みを見て、秀麗はふいっと顔を逸らした。 「大丈夫。もう伝えてあるから――こそ羽林軍を離れるのは寂しくない?」 秀麗との契約が切れればも今属している羽林軍から元の米倉番人に戻るようになっている。自分と同じようにお金が大好きな彼女なのだから、給金の良い羽林軍はまさに理想の場だったのでは?そう思い、秀麗はちらとを見た。 「いいえ、秀麗様。私はまったくこれっぽっちもさみしくありません」 だから、にこりと返したに秀麗は驚いたように目を見開いたのだった。 「お世話になりました」 秀麗を筆頭にして、も綺麗に礼をした。彼女等の隣には静蘭、邵可が並んでおりその隣には貴族のものとは思えないほど質素な軒が置かれている。 見送りに来てくれた面々を見て、は今どうにも自然に微笑み挨拶をすることが出来ない。それというのもその面々の中に藍楸瑛がいるからだ。にこにこと当たり前のように突っ立っている。がこの男を気に入らない理由のひとつに、彼のこの何事もなかったかのように振舞う態度がある(だからといってそういった態度に出られても困るのだが)。 「霄太師は、居らせられないのですか?」 「仕事があるそうだ」 無単調に劉輝は返した。それはささやかながらも霄太師への反抗だった。 「それは残念ね。最後に挨拶しておきたかったのに」 「そうですね」 と秀麗が本当に残念そうな顔をすれば、劉輝は何を言っているんだ!とばかりに二人に詰め寄った。 「秀麗!!あの好々爺にだまされてはならんぞっ」 劉輝の言葉には何を言っているんだこの王は、とばかりに眉を寄せたが、秀麗は思い当たることがあるようにはっと顔を青ざめた。 「だまされるって――まさか霄太師!謝礼金を払わないつもりじゃないでしょうね!?」 その言葉に今度はがはっとした。 「冗談じゃありません!それじゃぁ、秀麗様の働き損じゃないですか!――邵可様!ちゃんとふんだくってきて下さいよ!!」 二人の見当違いの言葉に邵可は苦笑した。そして劉輝は落ち込んだ。 「……秀麗はお金目当てで余に嫁いだうえ、弄ぶのだな……」 「主上!人聞きの悪い言い方はお止め下さい!秀麗様はきちんと働きました」 「は、働きとは…もはや仕事の関係でしかないではないか」 の言葉にさらに劉輝はがっくりと、項垂れた。 「…あのくそジジイとの契約料は幾らだ」 「金五百両です」 「たったそれだけだと!?秀麗、待て!余ならその二倍、否三倍を――」 「はい、はい!主上、そこまでですよ」 突然ぬっと楸瑛が現れ劉輝の口元を塞ぎ込んだ。その男のでしゃばりにはぎょっと後ず去ったが、彼はそれをちらと視界に入れ劉輝の耳元で何事かささやいた。そしてその手綱に操られるように劉輝はぴたりと口をつぐんだ。 「秀麗殿。時々遊びに行くよ。噂の君の手料理を御馳走してくれるかな?」 その言葉に反論したのは秀麗ではなくだった。 「李侍郎ならともかく、貴方は絶対に来ないで下さい!」 「?」 楸瑛がにしでかしたことを知らない秀麗はこの家人がどうして頑なに楸瑛を拒絶するのかは理解できなかった。しかし藍将軍にはお世話になった身。秀麗はきちんと彼に礼返しをしたいので言葉二つ三つでを宥めて彼が来ることを了承した。 「それよりも、と静蘭は本当に羽林軍を出るのかい?」 「そういうお約束ですので」 静蘭がにこりと返すと、楸瑛はあまり残念そうでなくそう、と言った。彼は内心ではとても二人のことを気に入っていたので実はとてもおしいと渋りたい心境なのだが、あえて表に出す気は微塵も無かった。 秀麗は絳攸へ、珠翠へ、世話になった人々に礼を述べ、また会いましょうねとばかりに微笑んだ。だけど、ただ一人。劉輝の前にたったとき秀麗の顔はふっと寂しさを増した。たとえ秀麗でもこの人だけには「また」と言えないのだ。 「さよなら」 秀麗の言葉に劉輝は真剣な面持ちで頷いた。そして彼は隣に立つとその奥にいる静蘭にちらりと視線をやると、ふっとその顔を秀麗に近寄せた。 「――な、何をしてるんですかー!!?」 一人が叫び、ほかの皆が凍りついた。気がつけば秀麗は劉輝に唇を奪われていた。 (秀麗様に手を出すとは!何て事を!この莫迦王!!) 主人の純情の危機にい切りだったが行動に出るのを先読みした楸瑛はさっと彼女の体を押さえつけた。 「離してください!」 「離したら君は王であれその剣で切るのだろう?」 は秀麗に怒鳴られている劉輝をチラと、見た。自分への信頼に花を授けたその王を。 「ちょっとだけです」 「ちょっとだけって、君…」 「…同じことじゃないか」 と楸瑛の会話を聞いていた絳攸は青い顔をしてぼそりと呟いた。 「殿――私が来たら、逃げればいいなんて思ってはいないだろうね?」 先ほど劉輝にそうしていたように耳元で囁かれは身を強張らせた。彼の言葉通りには行動しようと思って秀麗の手料理を御馳走することに了承したからだ。 「いけませんか。貴方の目当ては秀麗様の手料理でしょう」 は開き直った。 「約束を忘れてるみたいだね」 もはや遠くで言い争いしている秀麗と劉輝の言葉はの耳にはまったく届かなかった。 「君の奏でる笛を――武芸大会に優勝した私にはその権利があるはずだよ」 「――藍将軍」 がばりっとは楸瑛から身を引き離された。首根っこを引っ張って彼から引き離したのは静蘭だった。無表情ともとれぬ表情で彼は少しだけ背の高い藍将軍を見上げた。 「お戯れも大概にしていただけませんか」 「考慮しておこう」 さらりと静蘭の厭味を避けて、楸瑛は身を引いた。隣では絳攸がそれ見たことか、とばかりに彼に視線を向けているがそれはいつもの事らしく彼はちらとも気にしていないようだった。 そうして春が終わった。 夏の緑がこれから広がるであろうその時分に、たちは惜しむ者を残して宮城を去った。 |
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