第十訓 水波紋のように広がる事実 「一体どうしたの!」紅秀麗は大げさに飛び跳ねて、その物体に駆け寄った。 疲労困憊。 満身創痍。 ぐったりと、庭先で横になっているその物体――もとい人物はあろうことか秀麗の家の家人の茨であったのだ。 「あぁ…秀麗さま。こんにちは」 「こんにちはって貴方…顔が真っ青じゃない!!ちゃんと食べてるの?昨日は府庫でちゃんと眠ったの?また父様の手伝いに付き合わされて『いいですよ私が全部しておきます』って夜更かししたんじゃないでしょうね!」 に負けじと顔を真っ青にした秀麗は、がくがくと寝転がっている彼女を揺すった。彼女はがしりとの頬を両手で挟み、真正面からその黒曜石のような瞳を睨みつけた。 「もしかして羽林軍で苛められているの!?静蘭もあなたも強い上に、顔もいいわ!いらない反感を買ってしまったんじゃないの!?」 「…いえ、そういうわけじゃ」 じゃあどうなの!ずんずんと押し迫る秀麗を見て、は数日前の武道大会での藍楸瑛との事を思い出す。のことを女だと確認しても決して真相を見ようとはせず、それどころかそれ以来一辺もの前に姿を現さない。興味が薄れてしまったのではないか。そうだとして、そのうちひょっこりと羽林軍から隊を辞せと通達 されたらどうしよう。それを考えてはの繰り返しではろくに飯も喉を通らず、睡眠もとれず今の状況に至っている。 「少し、食欲が無いだけです」 「本当に?」 「えぇ」 「それならちょうどいいわ。いらっしゃい」 「えぇ――って、はい?」 がしりと腕をつかまれ、は身を起こした。秀麗は問答無用と言った風に彼女の腕を握ったまま先へと歩いていく。 「あの、…府庫ですか?」 秀麗がを連れてきたのは府庫だった。いつもなら中に居るであろう邵可は偶々留守らしい。彼女はあらかじめそこにおいていたであろう茶器の入った箱からたくさんの道具を出し、の肩を押し椅子に座らした。 「ほら、食べなさい」 「あの、」 目の前に饅頭を二つ出され、そして湯気の立つお茶をそそがれる。其の光景にはっとしたようにが「私がやりますから、」と秀麗に手を伸ばしたが、彼女はぱちんっとそれを弾いた。 「食べるまで見張ってますからね!それまで大人しく座ってなさい」 「え、えぇ?秀麗さま?――えーっと……それでは、すみません。い、いただきます」 もはや睨むように視線を向ける秀麗には従った。饅頭はの好物である秀麗の手作りのようで、まだ温もりがあるその味はとても懐かしく、あっさりとの胃に納まった。それを見た秀麗は満足そうに微笑み、空になった茶器に二杯目のお茶を注いだ。 「。もし、悩みがあるなら何でも言いなさいよ。私も、静蘭も、もちろん父様も誰も貴方のそんな顔見たくないわ」 「秀麗様…」 自分はそんなに酷い顔をしていたのだろうか――は少し考え込んだ後、その重い口を開いた。 「実は…隊の人間で、私を女だと知る人が居るようです」 「え?」 予想外の言葉だったのか、秀麗は目を見開いた。 「数年前に妓楼の前で秀麗様と笛を奏でる私を見ていたと言われました」 「そ、それは、誰なの?――妓楼って――もしかして、藍将軍?」 彼女の口から出た言葉に、今度はが目を見開いた。 「どうしてそう思われるのですか?」 「藍将軍は、静蘭の事もだけどやけにあなたの事を私に聞いてきたから――ごめんなさい。その時に私、は笛が得意だと自慢してしまったの。もしかしたら、私のせいで」 眉を寄せる秀麗には「違います」と言葉を切らせた。 「秀麗様のせいではありません。全て、それを悟らせた私の責任です」 「もし私が隊を辞したら、私はもうあの家を出ようと思います」 「どうして!」 大声を上げてがちゃりと茶器を揺らす秀麗から、は顔を逸らした。 「朝廷を騙していた女を家人にされてたとなれば貴方も邵可様も立場が悪くなられます」 事務的に話すを見て、秀麗は拳を握った。その拳は怒りに小さく震えている。秀麗はそして大きな声でこれでもか、と言うほど彼女の耳元で叫んでやった。 「馬っ鹿じゃないの!!」 キンキンと劈くその声に、最初は秀麗が何を言ったか理解できなかった。秀麗は彼女に考える間も与えず次々と言葉を繰り出した。 「貴方が家を出てく?どうしてそんな事を考えるの?もし出て行ってみなさいよ!私は何処までを追いかけて連れて帰ってやるんだから!――立場が悪くたって、いいじゃない!私達は…家、族じゃないの?…迷惑だなんて思わないんだから…」 「秀麗様」 「…、の…馬鹿」 声を張り上げて泣いてくれる少女をはただ愛しいと思った。 そうだ、自分には決してそう簡単に壊せる仲などでもない大切な――守りたい人達がいる。私は何を先読みしすぎていたのだろう。秀麗様を泣かせてまで―― 「すみません。もう二度と言いませんから」 「絶対よ!」 「は、はい!」 「私はどうにも、悪役なようだね」 「「ぎゃぁ!!」」 と秀麗は突然本棚から現れた男に飛び跳ねた。無理も無い。現れたのが静蘭や邵可ならまだしも、その人物はの悩みの種である藍楸瑛だったのだから。驚く二人を見て、楸瑛はにこりと笑みを零した。 「女性が揃ってはしたないですよ」 「ら、ら、藍将軍どうしてここに!?」 慌ててが問い返せば、彼は決まりが悪そうに眉を寄せ苦笑した。 「すまない――これ以上嫌われたくないので、一応先に謝っておくよ」 楸瑛はそう言って本棚のほうを振り返った。 「でも大声で叫んでいた君達のせいでもあるんだよ。ねぇ、絳攸」 |
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