第九訓 彼、彼女

 試合は藍楸瑛の優勝に終わった。
 は侮っていた。彼はひらひらとした藍色の服に身を包んだだけのただの色惚け節操無し常春頭男ではなかった。立派な――それこそ優秀な武官だったのだ。ひらりと掌を返したかのように見せ付けられたその力には驚きと、悔しさを感じた。試合が終わり疲労もなにも見せない彼の優雅さが、余計、憎らしかった。そしてはその先を逃げるように次の試合を棄権した。

 式が終わったら稽古場の裏へ――
 去り際に、膝を落としたに腰を屈めて楸瑛は囁いた。その時の掠れた声が耳から離れない。表彰式の最中も、は顔を上げてその男の姿を視界に入れようとは思わなかった。けれど視界にその姿が入らずとも頭の中で何度もその掠れた声が木霊していた。
『藍様のご活躍、見られました』
『えぇ、本当に素敵な御方』
 稽古場に行く途中に廊下でほうっと蕩けるような表情をした女官がまるで夢見る少女のようにそう言葉を交わしていた。貴方達は目が腐っているのか――!!と思わず忠告してやりたくもなったが――よくよく考えれば藍楸瑛は女性からみればかなり魅力的な男なのだと気付いてしまった――武官になる以前はあの才人李絳攸と並び文官もしていたという。彩七家の内でも一等位の高い藍家の嫡子であり、加えてあの華やかな顔立ちに、優雅な立ち振る舞いだ――あれでもうすこし謙虚な性格なら自分も見る目が変わったかもしれない。そんなことを考えてればいつのまにやら稽古場が見えていた。夕日に染まったその場所の奥に、ちらと官服の裾が見える。はわざとらしく歩みを遅くしてその場所へと向かった。
「やぁ」
 楸瑛はにこりと笑って手を上げた。彼の服は昼間の灰色の軍服とはうって変わって、いつも通りの藍色の品位を伺える服へと変わっている。は自分も着替えるべきだっただろうかと思い、それを気に掛けたように顔に着いた汚れを袖で拭いた。
「お互いに、試合お疲れ様」
「優勝、おめでとうございます」
 ありがとう、と楸瑛は短く返し――じっとの顔を見た。
「早速なんだけど、賭け勝負――覚えてるよね」
「はい」
 『君が私に勝ったら、私は君の望むことを叶えよう――君が負けたら、君にも私の望むことを叶えてもらおう』
 それは数日前、楸瑛がに突き付けた条件であった。
「約束は守ります」
がそう言えば楸瑛は満足したように一歩へと歩み寄った。夕日に照らされて彼の青みがかった黒い髪がきらきらと反射を返している。その眩しさには目を細めた。

「それじゃぁ――今度君に楽を奏でて欲しいな」
 は一瞬耳を疑った。表情を変えずそう言った藍楸瑛はの予想とは遥かにかけ離れたことを言っている。動揺しながらもは掠れた声で相手に尋ねた。
「どういう、ことですか?」
「言葉どおり。私のためにだけ楽を奏でて欲しいだけだよ――皆の目が気になるようならこうして二人きりの時だけでもいい」
 はますます混乱した。あれほど自分の心を乱しておいて、どうして男がそんな要求をするのかには理解できなかった。そしてこの男はどうしてチラとも言ったことが無いのに私が楽を嗜んでいることを知っているのか――
「どういうことなのですか?私は――貴方は、私のことを女だと疑っているとばかり――」
「そこまで」
 小さな子供に静止を掛けるように楸瑛はの前に指を一本立てた。
「疑ってなどいない。私がその答えを望まないのは、君が女性だという確信を持っているからだ」
「何故?」
 男の言葉に感情がどんどん乱れていくのがにはわかった。けれどやはり目の前の男はそんなを見ても眉一つ寄せたりせず、落ち着いた眼差しで前を見据えている。
「――数年前。町で私は女性である君を見かけてね」

「それが、私だという証拠にはなりません」
 動揺を悟られぬよう、は強い言葉で言い切った。藍楸瑛が町でに似た女を見ただけで、そう思うのは勘違いだとシラを通せばいいと思って。
「いや、君だよ。私はその少女の隣で二胡を奏でる秀麗殿も見ている。そして彼女は隣の少女を『』と、君の名で呼んでいた」
 楸瑛の言葉は真実だった。と秀麗は時折、賃仕事のために邸や妓楼やらで楽器を奏でることをしてきていた。秀麗は母から教わった二胡を、はその秀麗の隣で――
「笛を、奏でていたね」
 楸瑛の言葉には唇を噛み締めた。すべてを知っている。なんだ。この男は――表情も崩さず、人の心をかき乱して――始めから慌てるを面白いとでもからかっていただろうか。ふつふつと腹の底から湧いてくる熱。それは恥でも、悔やみでもなく、強い怒りだった。
「あの時は足を止めて聞く暇も無くてね――だから私はその時の音色を聞きたい」
「知っていて、黙っていたのですか――あなたは」
「そうだよ」
「馬鹿な事だとでも思いましたか?女が男として戦うことが――私を――貴方はそうして影で笑っていたんですか!」
「笑ってなどいない」
 躊躇いも無いその返答には伏せ気味だった顔を上げる。その瞬間、目の前にある丹精な顔にある双方の鋭い瞳に思わず言葉を失った。それだけで男の言葉が嘘でないのだとわかる。そして次の瞬間、藍楸瑛はそのしなやかな腕を伸ばしてを包み込んだ。
「お放しください!」
「それならば」
 「約束を、」耳元で聞こえる低い声にはぞくりとしたもの、同時に熱が上がるのを感じた。どれほど暴れてもこの腕は取れないのだろうと嫌でも感ぜらされた。は悔しさを噛み締め観念したように頷けば――少女の顔の上で、楸瑛は小さく笑んだ。
 それは俯いた女には見えない笑みだった。

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