第八訓 試合の駆け引き

 君が私に勝ったら、私は君の望むことを叶えよう――

 無謀にも藍楸瑛との掛け勝負を約束してから――今日で十四日経った。白昼夢を見たようにその二週間は過ぎて行き、気が付けば試合当日の朝となっていた。
 ――どうしたものか、
 府庫では規定の隊服を着込みながら思った。しかしあと二時間そこらで始まる試合で対策を思い浮かぶような頭でもないことを彼女は自負していたので、かえって焦るようなことはしなかった。
 ――とにかく、指輪のことを悟られなければいいのだ。
 常人には信じられないような力を持つ指輪。これはその実を見た人でなければ気付く余地もない代物だろう。試合に負けたところで男になっているの体をどう調べても(それはそれで嫌なのだが)指輪を外せば女になるなどあの『藍楸瑛』でさえ見破れるわけが無い。

***

!」
 王座の隣に用意されている皇后席から、綺麗な衣を纏った秀麗が地に降り立ちのもとへ走り寄ってきた。何だか久々に彼女を見た気がする。ふと、王座に視線をやれば劉輝が寂しさと羨望の眼差しを秀麗とに向けているのが見えた。仲間に入れてほしいのは目に見えたが、そこは王としての仕事を優先してもらおうとはにこりと一瞬微笑んで彼の視線を見なかったことにした。
「頑張って頂戴!なんたって優勝商品は金百両よ!」
「金百両!」
 何だその大金は!聞いてないぞ!とばかりには目を見開き何度も秀麗に確認を取った。の疑問に秀麗は「えぇ!本当」と力の篭った声で自信満々に返す、彼女の言葉に嘘がないことがわかり自然との瞳も輝いてきた。これは思わぬ副賞である。
「主上も参加してくれるし、静蘭とも出るんですもの!向かう所敵無し!既に我が家に金百両入ったも同然ね!」
 輝いた瞳で言う秀麗を見て、はくすくすと喉で笑った。「何かおかしい?」と問いかける秀麗には「いえ」と小さく首を振った。久々の秀麗との会話は、やはりどこか嬉しいと思って。

「静蘭とは最後まで当たらないみたいだね」
「残念ですね」
 対戦表の前で見つけた静蘭の隣では残念そうに呟いた。残念だと零す静蘭はしかし、どうにも残念そうには見えない気がする。
「無茶はしないでくださいよ」
「はいはい」
「"はい"は一回」
「はい」
「藍将軍と何かあったんですか?」
「はい――って」
 予想外の質問にぎぎぎっと首を回して隣を見る。静蘭はいつもと変わらない柔らかい――否、どこかいつもより強い笑みを浮かべてのほうを見ている。何だか恐ろしい。はふいっと、視線を地面にやった。
「何も、無いです」
「貴方は嘘が下手だといつも言ってるでしょう」
 本人は無自覚かもしれないが、は疚しい気持ちがあれば視線を地面に落とす癖がある。昔からそれに気付いている静蘭は、けれどそれを一度も彼女に教えてはいなかった。
「大丈夫。試合で勝てば何も起きない…はず」
「試合に勝てば、ですか」
 静蘭はが自分の顔を見る前についっと目を細め――官吏や軍人達に囲まれている藍楸瑛に視線をやった。自分は忠告をしたつもりだったのだが、と彼は心の内でだけ呟く。
「それなら、絶対に負けないでください」
「う……はい」
 認めるしか道もなく、は頷いてしまった。この男には何を言っても言葉巧みに返されて結局は彼の思い通りの返答をしている気がしてならない。

 李絳攸の拙い挨拶が終わり――、静蘭――そして、藍将軍に主上と――四人は他の人達を斡旋するかのように予選を駆け抜けていった。
は以外と強いのだな」
 途中、感心したように褒めた王の言葉をは素直に受け取り、喜んだ。
 しかし、試合が中盤に差し掛かった頃からは疲労を感じ始めた。元々動きで相手を翻弄して追い込む戦闘を好むにとって勝ち残り形式で一対一の形式勝負が続くのは体力の消耗を早めるばかりで正直つらいことだったのだ。

 そして周りとの差を歴然にしながら"その四人"が準決勝まで残った――その中でと藍楸瑛との運命の勝負は準決勝で行われた。
 今日はいつもの艶やかな藍色の官衣でなく、と同じ褪せた色の軍服を着ている。いつもの服装とは違ったそれに軽く違和感を覚える――世辞でも嘘でもなく、彼には藍色の服が良く似合っていたと思っていたからだ。
「悪いけど、今日は本気だよ」
「えぇ。本気でないと困ります」
 呼吸が荒いのを隠すようには深く息を吸った。李絳攸が試合の始まりを告げる。は前回藍楸瑛との練習試合で行ったときと同じように地面を強く蹴り相手の前に素早く移動をする先方を取った。
「恐いね」
 言って、彼は――いつの間にか抜いていた剣での剣を受け止める。
 剣身が少しでもずれればスパリと身を切る体制。この状況でもにこりと笑っていられる彼の精神のほうがには恐ろしく思えた。たんっと再び地面を蹴り、相手との間に間合いを取る。それを直ぐに追いかけようとはせず楸瑛はを目で追った。
「茨――君は私の事が嫌いかい?」
 突然の質問。試合中だというのに、またこの男は何を言い出すのだろうか。
「正直に答えて欲しいですか」
「是非」
 は剣身を下に置いた。その行為に観客席から小さなざわめきが起こる。

「苦手です」
「苦手?」
 予想外の答えだったのか、楸瑛は一瞬目を見開いた。
「嫌いではありません。私は家の人意外の人とはあまり接したことがないのです。誰とでも親しくされている藍将軍は、正直世界の違う存在のお方です――さすがに先日の事では品性を疑いましたが」
「それは、非礼を詫びておこう。君に嫌われたくは無いからね」
 ずばずばと言うにくすくすと笑う男はそれまでの作った笑みとは違ったものだった。それはきっととても貴重なものだろう――の目にはどこか幼い青年のように笑う藍楸瑛が映っている。
「茨、君は私を見て何も思わない?」
「――どういう、事ですか?」
 がわけがわからないとばかりに首を傾げれば、楸瑛は思い出したように剣を上げた。
「どういう――か、まぁそれはまた次の機会に話してあげるよ。今は観客が少し邪魔だしね」
 気が付けば辺りのざわめきは大きくなっていた。切っ先を光らしこちらを真っ直ぐに見つめる藍楸瑛にはごくりと息を呑んだ。

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