第六訓 迷人の来訪

 空がとっぷり暮れた頃、その男はやってきた――

 宮中で主上付きの護衛となったと静蘭は毎日馴染みでもある邵可の居る府庫で夜を過ごしている。主上の護衛とは別の仕事として夜の場合は宮中での見回りも任されており、静蘭とも二週間に一度ほどの機会でその任務をこなしていた。
 そして、今日は静蘭がその当番を任されている日であった。
 だから夜遅くに府庫の扉に人影が見えた時、はその人物を静蘭が来たものだと思い込み、たたっと駆け寄り躊躇いもせず扉を開いたのだ。その顔に男を装うことを忘れた満面の笑みを沿えて。

「早かったね、静――李侍郎?」
 予想外の人物の登場には黒い瞳を真ん丸に見開いた。
「お前は――か」
 名前を思い返してくれたその絳攸を見ればありえない程に青ざめていた。何をそんなに怯えているのかとは彼を部屋に居れて扉を閉める間際、きょろきょろと辺りを見たが別段恐ろしそうな物も人も居なかった。
「おや、絳攸殿」
「邵可様」
 本の連なった奥のほうから顔を覗かせた邵可に絳攸は顔色を良くした。傍から見ていたでもわかったどうやら絳攸は邵可様を慕っているらしい。
「どうかなさったのですか?」
「――遅くに申し訳ありませんが、」
彼はそこまで言葉を区切って不意に後ろを振り返った。その刹那、図らずともは彼とばちりと目を合わせてしまう。邵可を前にして絳攸は少し沈黙をおいた後、再び彼に向かって振り返った。
「今日は府庫に止まらせていただいてもよろしいですか?」
 疲労の残った顔で申し訳なさそうに言う彼を見て、邵可は直ぐに理由を悟った。こうして絳攸が朝廷を迷い歩いた末に府庫を利用するのも珍しくないことだった。邵可は別段それを悪いとは思っても居ない。欠点といえばどうしようもなく聞こえるが、それも彼の一部として、また一つの魅力として素敵なものであると邵可は思っている。それを言っても本人は心良くは思わないだろうけど。
「もちろん。狭いですけど、どうぞ――もいいよね?」
 そう言って邵可はに顔を向けた。府庫には寝室が二つしかない。一つは邵可の為の、そして二つ目はもう一つの空き部屋を改良したもので――そこでと静蘭は二人眠っていた。しかしその室はと静蘭が居なかった頃に絳攸が使っていた部屋でもあった。
 突然の来訪者の登場に"女"であるはしばらく言葉を失ったが、指輪を外さなければ大丈夫だろうと確信し頷こうとしたその時――それより早く李絳攸が声を上げた。
「この男と!?」
 先日藍楸瑛との揉め事の一軒から、絳攸にとっては朝廷で関わりたくない人物ランキングなるものににしっかりと帳付けされていた。の人格云々よりも楸瑛と関わっている人間と認識した上での彼の判断だった。
「えぇ、――彼は主上の護衛官となった日から毎日ここで静蘭と寝泊りをしてるんですよ。今日は静蘭が宮中見回りの夜勤に出ていますんで絳攸殿が静蘭の寝具をお使い下さい」
 さも当然のように推し進めてくれるその笑顔に、絳攸はこれ以上何もいえなくなった。観念したように一息吐き、彼はくるりとを振り返った。
「――世話になるぞ」
「はい」
 勢いあまって何故か偉そうに言う絳攸に、けれどは礼儀正しく返事を返した。

 寝泊りとは別に邵可に用事があるらしい絳攸を本館に残して、は寝室に行って寝具を整えた。綺麗に布団を引いて、念のためにと――少し距離を離しておく。する事もなく、けれど寝るのにはまだ早い時間のように思われた。は部屋の台にある蝋燭に火を着け、府庫から借りてきた書物をどさりと部屋の隅の机に置き、それを読み始めた。


***


「まだ起きているのか」
 ふいに掛けられた声には後ろを振り返った。
「もうそんな時間ですか」
 この時間帯に外を見ても一向に闇なので時間の感覚を掴むのは難しい。がぱたんと栞を挟んで閉じた本を、隣に立った絳攸はじっと見下ろした。それは一般人が読むような物語とは程遠いものだった。
「お前は武官だろう」
「そうですね」
 絳攸は再び本に視線をおろす。
「官吏になりたいのか?」
「いいえ」
 あっさりと首を振ったに面食らったように絳攸は言葉を詰まらした。
 だが言葉どおり、は官吏になりたいと思っていなかった。不思議な指輪によって"男"の姿になれるは、あと少しの努力さえあればりっぱに及第できるであろう――が――それは同時に女人でありながらその道を目座す秀麗への裏切りであるとは思っていた。自分が男として官吏になってもあの人はきっと笑って許すのだろうが、それでもはそれを禁じていた。
 それは彼女の中のある種のけじめであった。たとえ自分の心に目を瞑っても。
「その割には熱心だな」
「昔から本を読むのが好きだったので、見てれば良い時間つぶしになるんです」
 それは事実であった。昔から、書物の好きな邵可が持って帰った本や、秀麗が近所の人達から借りてきた書物をは暇をつぶすように読み漁っていた。勿論、秀麗程の固まった知識ではないもの、一般人にしてはそれなりの知識を持っているとは自負していた。

「よく府庫にはお泊りになるんですか?」
 それはのさりげない質問だったのだが、絳攸はぴくりと表情を固めた。
「……あぁ、まぁ…そうだな……どうしてわかった」
「邵可様が馴れたように対応なさってたので――あぁ、それに。李侍郎は邵可様をお好きなのですね」
 の言葉の意味を一つ間違えた絳攸はぶっと噴出した。
 そして目の前で、にこにこと笑って嬉しそうにしているを見て青い顔をして声を荒げた。
「そ、尊敬はしている!」
「やっぱり!」
 ぽんっと手を合わせては嬉しそうに微笑んだ。それはまるで女のような仕草だと絳攸は一瞬思ったが、まさかと思いそんな考えは直ぐに消してしまった。
「私も邵可様は素晴らしい方だと思います」
「あ、あぁ。そうだな」
「あの人はあまり華美でないからそうお目をつけるような方はいられないんです――おこがましいようですが――李侍郎のようなお方に邵可様の良さをわかってもらえて嬉しいです」
 曇りの無い言葉でそういうを見て、絳攸は再び言葉を失った。

「――明後日の武芸大会の事をご存知ですか?」
 蝋燭の火も消され、しんと静まり返った部屋では布団にもぐってすぐに、ふと、そう問いかけた。の質問に部屋の反対から「はぁ」と重い溜息が聞こえた。彼があまりこの話題を好まないのだと悟ったは話題を振りかけたことをなんだか申し訳なく思った。
「俺が審査と――始めの挨拶を勤めることになっている」
「そうですか」
 は寝返りを打って、暗闇の中薄っすらと探れる絳攸の気配に顔を向けた。
「李侍郎は――あの節操無……藍将軍の友人なのですか?」
 その瞬間がばっと絳攸は布団から上半身を起こし「違う!」と隣に居る邵可の耳に入らぬようにと声を荒げないようにしながらも、に訴えた。
「あんな常春頭とは腐れ縁で十分だ!それだけだ」
 腐れ縁も友人も似たようなものではないだろうか?けれどそれを言ってもこの人はすぐにばっさりと切り捨てることがわかっていたのではいわなかった。
「藍将軍はやはりお強いのですか?」
「強いのは、まぁそうだな――だてに将軍職をつとめてるわけじゃないだろうからな」
 素直に褒めることを避けるように絳攸は言った。
「それがどうした?」
 絳攸は先日の"藍将軍の強硬手段"の現場の唯一の目撃者であった。
 楸瑛のことを万年常春頭だと思っていた絳攸にしてみても彼が"男に抱きつく"ということはかなりの衝撃だったらしく――無駄に記憶力のあるぶん今でもあの場面を鮮明に思い出せる。「とうとうそこまで落ちたか」と、からかうにしてみても何だかこういった話術では上手く丸め込まれ、かえってこちらが下手にされそうなので絳攸はあの日のことをそれ以来楸瑛に問いかけたりはしていなかった。
「いえ、別に何も……」
 はふいと視線を天井に戻した。これ以上あの万年節操無し男のことを考えたく無いと思った。
 辺りはその言葉を境に静まった。絳攸はそれ以上何も聞かなかったし、はだんだんと瞼が重くなるのを感じ――そして夜が終わった。

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