第四訓 桜の木下で

 目を開いては直ぐにがばりと身を起こした。
 だが、そこはふかふか寝台などでは無かった。青々とした草地の上には体を横たおらせていたのだ。きょろきょろと辺りを探ってみても周りには誰も居ない。それが判るとは急に掌に鈍い痛みを感じた。
「起きましたね」
 後ろから聞こえた声に、はたとは振り返った。静蘭が右手に水をなみなみと注いだ茶器を持ちの隣に腰を下ろした。
「飲んで下さい」
 有無を言わせぬその言葉には器を受け取った。口にしてみればひんやりとした水が喉を通っていくのが何だか心地よく感じれた。さわさわと風の通る音がする。何だか心地よい――と、は目を閉じその空気に身を置いた。
「静蘭」
 目を開き――ちらりとそちらを見る。彼は彼女の言葉に顔を向けた。
「手が痛いわ。思いっきり叩いたみたい」
 ひらひらと少し赤くなった手を振ってみる。静蘭は何も言わず、に困ったような笑顔を返した。
「何も、聞かないの?」
「聞いて欲しいのなら」
 静蘭はそうして柔らかい笑みを浮かべた。何だかいつもの綺麗な笑みと違って、とても可愛らしい笑みだった。余り見ることの無いその表情には思わず表情を緩めた。
「ううん。大丈夫――多分。でも、もしかしたら私のせいで静蘭が降格するかもしれないから今のうちに謝っておこう。ごめんなさい」
「…どこが大丈夫なんですか」
 言ってから静蘭ははぁとわざとらしく溜息を吐いた。
「貴方が弱気だなんて、珍しい」
「だって相手があの藍将軍だから。あの人、何だか読めない人って感じだから――苦手。それに――」
 ――茨は女性ではないか、と
 頭の中に浮かんだ男の像を追い払おうとは顔をぶんぶんっと振った。女であっても男らしく生きてきたにとって小さい頃邵可とその妻に抱きかかえられた以外では始めての抱擁だった。いくら相手が軽い気持ちでやったのだと知っていても顔が赤くなるのは避けようの無いことだった。
?」
「な、なんでもないよ。静蘭!そ、それより主上は見つかったの?」
 の言葉に静蘭は「あぁ」と頷いて暫く考え込むように顔を曇らせた。
「お嬢様の所に居た」
「秀麗様の所に居た!?」
 が声を張り上げた。さっきまでの暗い悩みは何処へ飛んでいったのか――彼女は静蘭の胸倉を掴み訴えるように揺すった。
「だ、大丈夫なの?秀麗様は?秀麗様は何処に?」
 ふるふると震える首を何とか持ち起こしながら静蘭は向かいの庭園を指差した。

***

「あら、じゃない。久しぶりね」
 秀麗様に手を出そうとする不埒な男は退治するとばかりに飛び出したはその光景を見て思わず目を見開いた。桜の並ぶ美しいその庭園には一台の机が置かれており、そこにはの敬愛する秀麗と、一人の青年が老人のお茶会宜しく和やかにお茶を啜っていた。
「秀麗様……そのお方は?」
 秀麗の隣に居た青年はの知らない青年だった。思わず問いかけたが、それ以前に秀麗様の所に主上が居ると言っていた静蘭の言葉をは思い出した。そうか、この人が主上。
 それはとても若く、人形のように恐ろしく整った顔立ちの青年だった。彼はを見て、そして(これは予想外だったのだが)おどおどと隣の秀麗を見て――小さな声で名乗りだした。
「余、わ、私は――藍楸瑛だ」
 その瞬間の口元が引きつったのは言うまでも無い。


***


 『藍楸瑛』はの思うほど悪い男――もとい、危険な男では無かった。おずおずとした風にだが会話を試みようとするその様子はまだ親以外の大人に慣れていない子供と会話をするように感じれ、年は同じと知っていても可愛らしく見えてしまう。
「そういえば――」
 ふと秀麗はに顔を向けた。
「私達明後日あたりから一緒に政の勉学に励もうと思ってるのよ」
「勉学…ですか?」
 向学心旺盛な秀麗の目が爛々と輝いているのを見て、は「それはいいことですね」と正直に頷いた。
「それでね、もどうかしらと思って。貴方もよく私と一緒に勉強してくれるし。霄太師に誰かいい講師を呼んでもらうようお願いもしようと思ってるの――貴方さえ良ければなんだけど」
 秀麗の言葉にはきょとんと目を見開いて、えと声を出した。優しい彼女の言葉には胸の奥からじんわりと温もりが浮かぶのを感じた。
?」
「え?あ、はい――秀麗様。とても、嬉しいです」
 女の身でありながらの主である秀麗は昔、官士になることを夢見ていた。女人には無理だというそのことをしっても彼女は決して落ち込むことなく、こうして後宮になりながらも国を変えようとしている。本当に、この人は素晴らしい人だ――そして、だからこそと静蘭は彼女を守りたいと思う。
「お言葉ありがとうございます。ですが、私はまだ羽林軍に入って間もないので自分の体力作りに勤めたいと思います」
 少し残念そうに「そう」と秀麗が頷き、ふと思いついたように手を打った。
「それじゃあ貴方の武術の講師も霄太師に頼んでみましょうかしら」
「あはは、そうですね。お願いしときましょう」
 秀麗の優しさに甘えるつもりではそう受け流したのだが――後にこの言葉を大いに後悔することになる。

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