第三訓 彼女の知らぬ間に進み行くもの

「お、落ち着け――取り合えず、落ち着け!」
 かの左羽林の軍将軍に張り手をくらわしたはそれでもまだ返したりない!とばかりに血気盛んに剣の柄に素早く手をやった。顔を真っ赤にして興奮したようすのを見て、流石の李絳攸も声を張り上げて彼女を止めにかかった。
「こいつの所業にいちいち構うな――!」
 試しにと名前を呼んでみるが、効果は乏しい。絳攸は何だか泣きたくなってきた。
「お放し下さい!李侍郎!」
「いやぁ。なかなか刺激的だね」
「お前も少しはこいつを宥めろ――!」
 楸瑛の頬に着いた紅葉の痕は痛々しそうだが、彼の表情は変わってなかった。それどころか、張り手を食らわしたを見てどこか確信めいたようににこにとした表情を先ほどから見せている。
 茨は女性ではないか、と――
は内心彼の所業よりも(勿論こちらも許せるものじゃないが)彼の言葉に動揺が走って興奮していた。
 もし本当に女だとばれてしまったらどうなるだろう?
 最悪あの家を追い出されてしまうのかもしれない――勿論秀麗や邵可達にそんな気はまったくといっていいほど無いが、いくら指輪で体を男にしているとはいえ、それで集めれる給金で彼らに恩返しをしているには不安で堪らなかった。

?何をしているんです?」
 突然現れたその声の主は静蘭だった。部屋に入って彼は李侍郎に背中から押さえ込まれ、藍将軍に剣を向けているを見てぎょっと目を見開いた。
「一体……」
「おい!お前――て、手伝え!」
 絳攸の言葉に静蘭ははっとしたようにのもとへ駆け寄った。そして何を思ったのか彼女の首の辺りに躊躇いも無くすとっと手刀を落とした。急にぐたりと意識を失ったを、絳攸は慌てて受け止めた。体力には余り自信のない彼だが、それでもよろけることなく持てるほどにの体は軽かった。

「無茶をするね」
「でなければ、貴方は刺し殺されてましたよ」
 楸瑛にあっさりと答える静蘭の答えに絳攸は腕の中のを見てごくりと息を呑んだ。
に刺されるような事をしたんですね?」
「少し抱きしめただけなんだが、こんな仕打ちは初めてだね」
 そう言って彼は苦笑したように表情を取り繕い、赤くなっている自らの頬を撫でた。彼は冗談めいたつもりでそう返したのだろうが、今の静蘭には火に油だった。
「抱きしめた――?」
 その瞬間ふっと部屋の温度が下がったのを絳攸は感じた。だが彼は部屋の隅でを寝かし、その影に非難する以外に道はないことを本能で理解していた。
「何をお考えなのですか?」
「何も――」
 何も――、と答えた藍楸瑛はけれど明らかに何か考えを持っているのだと長年の付き合いから絳攸は感じた。一体この少年に何を感じたというのだろう?ちらと下に視線をやる。話の元の少年はまるで眠るように穏やかな呼吸をしていた。
「強いて言うなら、可愛かったからかな」
「ふざけないで下さい」
「――では、ここでそれを言ってもいいのかな?」
 そう言った楸瑛は視線を部屋の隅へと向けた。そこにはすっかり意識を失ったとそれを支える李絳攸 が居る。静蘭は彼等を視界にやってから――何だ、何だ。と混乱している李絳攸を放っておいて――ふいっと藍楸瑛に視線を戻した。
「貴方が何を疑っているか、私は知りません。ですが、あまり"この男"に手を出さないで頂きたい」
「それは忠告かな?それとも警告?」
「どちらもです」
 上司への挨拶も無しに静蘭は部屋の端で転がっているを広い腕に抱き上げ――退出した。
 後に残った絳攸が楸瑛に、何事だったのか問いかけても彼は何も教えようとはしなかった、その楸瑛の顔にはいつものような笑みが無かったので絳攸の疑問はますます募るばかりだった。

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