第二訓 藍の抱擁

 どうしたものか、

 その日、茨は迷っていた。佇む彼女の目の前には一人の男。
 背の高いその男は辺りをきょろきょろと見回しては「はぁ」と重い溜息を吐いている。かと、思えば柱の影や扉から人が現れると途端ぴしっと背筋を伸ばし威風堂々と前進をしている。そして人影がなくなればまた元のように溜息。先ほどから何度もそれを繰り返している男を見て、さすがのも不信に思った。
「あの」
「うおっ!」
 突然背中から声を掛けたせいかもしれないが、男は後ず去るように飛びのいた。そんなに驚かなくともいいのではないか――はそう思ったがあえて口にはしなかった。
「何かお困りですか?」
「いや……」
 低い声で視線を逸らす彼を見て、は首を傾げた。
「その割には半刻程ここをぐるぐると悩んでおられたようですけど」
「なっ!?お前、いつから見ていた!」
「ですから――半刻程前からです」
 がきっぱり答えると、男は顔を青くした。もしかしてそれほど重要な悩みなのだろうか。ならば自分のような見ず知らずの者が顔を突っ込むのは帰って迷惑なのかもしれない。はそう迷惑をかけたものだと思い込み、残念そうに苦笑した。
「申し訳ありません。ご迷惑だったようですね――では、私はここで」
 くるりとは踵を返しそのまま帰ろうとした、だがそこで思わずくんっと腕を引かれは動きを止められた。何事だと思えば、例の男が仏教面のままの腕を掴んでいる。
「何か?」
「お前、何処の部署の者だ……」
「部署と申されましても、私は武官ですが…」
 簡易なものではあるが、甲冑を着けたその姿はあきらかに武官を指すものである。当たり前のことを聞く男にはちらと男を見返した。澱みの無い黒い瞳で見上げられ、男は気まずいとばかりにふいと顔を逸らした。
「ならば。こ、これから何処へ……」
「ええっと――」
 は考えた。
 実は王の警護を任されて五日経ったものと静蘭は今だ王の姿を見ていない。さすがにこれ以上は待てない、と今日は静蘭と手分けをしてその王を探しているのだ。今はその王探しの最中である。まだ探していない所は何処だったか――思い出すようには目を伏せた。
「府庫――ですね」
「何!?それは真か!」
 突然気迫を出し詰め寄る男には驚き一歩身を引いたものこくこくと頷いた。
「そうか、府庫」
 にこりというより、にやっと笑って男はを見下ろした。
「私もそこに用事がある」

***

「おや、やけに早く来たね」
「煩い。黙れ」
府庫の本館部屋の隣の別室に男は入っていった。直ぐに邵可様のいる本館へ行こうとしたもの、中から聞こえた声が何だか聞き覚えがあるものだったのでは興味本位でちらっと扉から顔を覗かせた。
のだが――
「会うのは二度目だね」
「…藍将軍」
 確かに部屋の奥から聞こえたはずの声の主が、なぜだか扉の前にこにこことした表情で立っていた。彼のあまりの身の速さには口の端をひきつらせた。さすが、左羽林の軍将軍といった所か。
「中へ入ったらどうだい」
「いえ、私は今、仕事が――」
「仕事、ねぇ」
 楸瑛は顎に手をやり、ふむと頷いた。この男の動作一つをとっても絵に取るような優美さだ。その所作に、は無意識にじっと背の高い彼を見上げた。
「それならば、なおの事ここに居ればいい」
「え?」
「おい、楸瑛」
 何か思い当たることがあるのかが連れてきた男がを鋭い目線で射止めながら低い声を出した。彼の言葉に藍将軍はこくりと頷く。君の考えていることは正解だよ、と言葉を添えて。
「そう。君を連れてきてくれたこの親切な――少年は――主上の護衛兵だ」
「ご存知だったのですか?」
 てきぱきと自分の素性を説明する男には瞠目した。
「この男は吏部で公務をしてるからね、君の名は自然と私の耳にも入ってきた」
 吏部――人事を司る部署である――はつっと案内した男を見た。役職の割りに随分と若いようであるが…若い上層管理職。記憶に思い当たることがあると彼女は「あっ」と声を張り上げた。
「もしや――李侍郎ですか?」
「おや流石。君、有名人だね」
 李絳攸――あの難しい国試に若干十六歳で上元及第を獲得した官士である。武官であるもその才人と誉れ高い青年の名を知っている。一時期ではあるが勉学に秀麗と並んで励んでいたは国試の難しさを一般人以上に理解していた。だからこそ、噂で十六歳の状元を聞いたときは大変驚いたと共に、感動したのだ。
「お会いできて光栄です」
 満面の笑みで返されては「鉄壁の理性」を自称する李絳攸もまんざらではないようだった。思わず緩みそうな口元を隠すようにしながら、彼は小さく「そうか」とだけ呟いた。

「君もなかなか有名だよ」
「はい?」
 突然の楸瑛の言葉には呆けた声を上げた。有名?誰が?
「見目麗しい麗人達が米倉番人をしていると――むさ苦しい武官達の中では君と静蘭は格好の噂の的だ」
「は、はぁ……」
 それはいいことなのだろうか?悪いことなのだろうか?
よくわからなかったはそのまま生返事を返しただけに終わった。
「しょせんは野朗のする話。多くは根拠の無いものだ――だけどその噂の一つでね。私はどうにも気になることがあった」
 はごくりと息を呑んだ。
 気のせいでなければ先ほどから藍将軍が自分ににじり寄っている。そう、気のせいでなければ。

「茨は女性ではないか、と」
 それは部屋の隅にいる李絳攸には聞こえないほど小さな声だった。

 囁くような言葉。けれどはそれを聞かずとも十分に驚いていた。ふわりと香る少しきつい香の香り。体を取り巻く温もり――気が付けばは藍楸瑛に抱き込まれていた。
(――え?)
 「何をしているんだ」と李絳攸の叫び声が耳に入っても、はいつしか彼に頬に指を添えられたときのように固まっていた。しかし無反応のを面白く思わないのか藍楸瑛は抱き込んだ内のの顔をついっと顎を持ち上げ上を向かせた。
「噂の真相は?」
 真正面にあるやけに整った顔を見て、の中で何かがぷつんっと音を立てて切れた。温度が急上昇し、驚くほどに顔がかあっと赤くなる。「おや」と呟き藍楸瑛はそのの顔を覗き込んだが、部屋の隅にいる絳攸は震えるの拳を見てこれから怒る事態を想像し――耳を塞ぎ、固く目を閉じた。
「ふ――」
「ふ?」
 聞き取れない小さな声に、楸瑛は問い返す。

「ふざけるな!この節操無し男!!」

 大声の後――ぱしんっと景気の良い音が響いた。
 隣の本館で茶を啜っていた邵可は「おや」と顔を上げたが――彼はまるで何事も無かったかのように読みかけの本に目を戻した。

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