第一訓 憂鬱から始まる任務

「しかし、あの米倉番のに妹が居るとはのう。どうにもどこかで見た顔だったわけだ。お主はいつも静蘭の隣に居たしの、目に付くわけじゃ――それにしても双子かと見間違うほどに似ておった」
「えぇ、よく似ていると言われます」
「町娘の妹御が何故、わしのことを?」
 霄太師の言葉に男はくすりと微笑した。
「太子を含め朝廷三師の皆様は私の尊敬する玄人です。私は妹によく御三方の話をしていたので――その話の姿と一致していたので先ほど彼女は声を荒げたようです。太子に会えたことが嬉しかったのでしょう。不躾な非礼だったことを、私からも謝らせていただきます」
 涼しげな笑みを浮かべた米倉番――は秀麗とその母仕込みの何とも優美な動きで太師に茶を注ぐ。漆塗りの綺麗な茶器に入れられた茶は、程よく湯気を立てておりよい香りを醸し出していた。直前まで邵可からの桶水を飲んでいたという霄太師はありがたそうにそれを手に取り、口にした。
「して、その妹御は?」
一息を置いて、太師はちらりとを見上げた。は動揺することも無くさらりとこう返す。
「つい先刻、出稼ぎの給仕に出ました」
「ふむ、それは残念だ。なかなかに綺麗な娘だったのでな。茶をついで欲しかったものだ。はっはっはっ」
「妹に言えば喜びます」
 まるで何事も無いように飄々と太師と会話を続けている。
 先刻の事件を心配して、部屋に入ってきた静蘭と秀麗は意気投合と茶のみをしている二人を見て唖然としたのだった。

***

 金五百両。
 霄太師が秀麗に依頼したものの報酬額である。それはその日暮らしで過ごしてきたには夢のような金額である。
 もし目の前に指五本を差し出され「これだけ出そう!」と太師に頼まれたらは二つ返事で彼に抱きついただろう。が、はどうにも納得がいかないようだった。何せ依頼されたのはも含め――あの秀麗だったからである。
「何をむくれているのよ」
 隣に立つ秀麗に聞かれ、は声を低くして悲しさを演出した。
「秀麗様にもしものことがあったら心配なんです」
 自分のことになるとやたら過保護になる家人に秀麗は苦笑いした。
「だって王の噂をご存知ですか。男色家だなんて――ちらと聞いただけでも私は鳥肌が立ちます!」
 しかも秀麗に依頼された内容というのは信じられない――王の后になってくれ――というものだった。たとえ期限付きの后という約定であってもは納得がいかない。それほど彼女は秀麗のことを心配していた。
「だから大丈夫なんじゃない。夜の心配は無いでしょう?」
 それは――そうか。秀麗のもっともなお言葉には頷きかけたが、はっとしたようにぶるぶると首を振った。
「秀麗様にもしものことがあったら……」
 しゅんっと項垂れたを見て秀麗は再び苦笑する。
「大丈夫よ。だって静蘭とがいるんですもの」
「そう。お嬢様に何かある前に私が阻止しますから――そう心配することはないですよ」
 微笑む静蘭にはも秀麗も不思議と安堵を感じた。


 今回の秀麗の後宮入りと同時に、と静蘭も霄太師からあることを仰せつかった。
「静蘭とは一時的に羽林軍に特進し、主上付きになっていただく」
 米倉番のと静蘭には耳を疑うほどの言葉だった。けれどお給金も上がり、位が上がることで少しは広く朝廷を歩くことも出来る。そうすれば後宮に居る秀麗様にも何度か会えるかもしれない。そう考えは隣で言葉を失っている静蘭を差し置いてあっさりとそれを了承した。

 後宮に行く秀麗をは名残惜しそうに見送った。女官たちがとても優秀そうに見受けられたのが彼女の唯一の救いだったかもしれない。
 そうして、とぼとぼと歩く隣の少年――もとい少女を見て静蘭は苦笑した。
「たいした事は起きはしませんよ」
「うん…」
 納得はしているもの頭の隅にモヤモヤとした感をは払えなかった。
「それに私達が昇進してお嬢様も喜んでたでしょう」
「そうか…そう、私達が頑張らなくてはいけないのよね」
 静蘭の言葉に気落ちしたものを上げ、は歩き始めた。先ほどまでの雰囲気はあっという間に取り払われきりりとした顔つきで武官らしく歩んでいく。
「ほら、さっさと主上を探すよ。静蘭!」
 勇ましいというか、何とも早い変わり身だ――静蘭は思いながら彼女の背中を追った。

「おや、静蘭じゃないか」
 の機嫌が上がり数十歩と歩かない所でその男は現れた。
 藍楸瑛――現、左羽林の軍将軍。色男と名高い煌びやかな顔立ちと、華々しい女性暦――朝廷で武官として働いていたもいくらか言葉を交わしたことはあるもの、殆ど遠目にその姿を見たことがあるだけだ。知り合いだったのか静蘭に親しそうに声をかけ、彼はふいと視線を隣に居るに向けた。
 射抜くような、それでいて値踏みするような視線。
彼女は突然の視線にも動揺を見せず、ついっと手を合わせ礼儀正しく頭を下げた。
「君は、確か茨――君だね」
 今の今まで数度しか言葉を交わしたことの無い彼が自分の名を知っているのには驚いた。それに驚き思わずふっと下げていた顔を上げると、彼は長い指を伸ばしての頬に触れた。
「うん。なかなかだね。静蘭の隣に立っていても不自然ではない」
「……はい?」
 言葉の意味が判らない。それでいてこの頬に添えられた指はなんなのだろう。いままでに無い状況にが固まっていると救いとばかりに静蘭が声を掛けた。
「藍将軍…」
「おや、すまない。つい見入ってしまった――勿論君も文句無しに綺麗だよ。静蘭」
 男の言葉に静蘭は「ありがとうございます」と笑顔になるわけもなく、それとは対照的に(珍しくも)不機嫌を露にするかのように眉を寄せた。
「藍、将、軍」
「はいはい。わかったからそう恐い顔はしないでくれ」
 冗談とも本気ともつかない言葉使いで楸瑛はから指を放した。
「それじゃぁ、私はこの辺りで――どうしようもない上司を捜索中なのでね」
 優雅な身のこなしで、楸瑛はにこりと笑った。けれどどこか底知れないその表情は、には乾いた笑いにしか映らなかった。
「それじゃあね。静蘭に、――君」
 

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