序章 予想外の来訪者

 その日、こと――茨はいつもと替わらぬ平凡な一日を過ごしていた。
 手には細い銀針を持ち、彼女にしては当たり前なのだが、どう見ても常人離れした速さでせっせと刺繍をつくっていた。口の端で長い糸をぷつんと切る。確認をするように膝の上に広げてみる、見ればそれはとても美しい七色の羽を持った鳥の姿である。売れば恐らく銀一両はいくであろう、そういつものように値踏みをしては満足げにそれを机上に畳み込み、次の布をとった。

 日常の中に、非日常が入ってきたのはその瞬間だった。
「大変なことになりそうです」
 そう言って部屋に入ってきたのはこの家で家人を勤めている静蘭こと苡静蘭であった。
苡静蘭という人物はいつもこの家では穏やかに微笑んでいるような人なのだが、今の彼は普段の彼を知る人ならば「一体何があったんだ?」と心配し、問いかけたくなるような緊張に青ざめた顔をしていた。例によってそのとき部屋に一人居たもその心配するうちの人間の一人だった。そのは今月で三十二枚目にはいるであろう割の良い内職の一つの刺繍縫いをしている最中であった。
「おかえり。何かあったの?」
「旦那様は――」
 自分の挨拶などそ知らぬ顔できょろきょろと辺りを探る静蘭には内心むっとくるものがあったが作業をする手は休ませようとせず、首だけを軽く右へ動かし方向を指した。
「邵可様なら先ほど帰られて、隣の部屋でお休みに――それで、何があったの?」
「話をしている場合ではないんだ。。貴方も早く部屋を出た方が――」
「まぁ、そう焦らないでもよい。静蘭」
「――!?」
 余談だが静蘭とはこの家――紅邵可様の元で家人として暮らしている。そして二人は家人であると同時に、あの朝廷での武官という職も持っている。女であるがどうして武官をしているかという話は後ほどにしよう――そう。こういっては偉そうに聞こえるかもしれないが静蘭は武官としての才能にかなり長けている。きっとそこらにいるゴロツキ数十人を仕向けても、彼は涼しい顔をして剣を抜かずに相手を投げた押してくれるだろう。
「どうした?狐に騙されたような顔をしおって」
 そんな武官として腕の立つ静蘭の背中へ、気配を悟られることもなく立ったのだ。しかも現れたのは豊かな髭と白髪を蓄えた老人。そのことには二重にショックを受けた。それにこの年寄りは――
「霄太師!?」
 言ってからは「しまった」と口を手で覆った。だが、時既に遅し。予想通り老人――こと霄太師は自分の名を呼んだ少女、を見て目を大きく見開いた。
「はて、お嬢さん。どこかでお会いしたかな?いや、まてその顔…ふむ…見覚えが、あるようだが……」
細い指で髭を梳きながら、霄太師はににじり寄る。
「霄太師!」
 そこで突然今まで突っ立っていただけの静蘭が声を張り上げて太師の注意をそちらに向けた。
「旦那様の所へ案内します。こちらへ」
彼はそう言って有無を言わせぬ微笑を太師に向けた。


 小さく扉を閉めて静蘭は戻ってきた。「今は邵可様に相手をしてもらってる」という静蘭には「ごめんなさい」と頭を小さく下げた。彼は小さく溜息を吐き、目を細めた。
「まったく、"その姿"は見られてはいけないとあれほど注意しておいたのに」
「太師が来るなんて思いもしないわよ!――太師が……太師が…どうして、太師がこの家に?」
「さぁ」
 静蘭も理由を聞かされていないと首をふる。"朝廷三師"の一人である霄太師が位は高いもの貧乏自慢も出来るほど貧しいこの家に来る理由など一体誰が言い当てることが出来るだろうか。も静蘭も疑問に思わずにはいられない。
「だけど、あまりいい用事ではないでしょうね。太師が用事があるのはお嬢様らしいから――あぁ。そういうわけで私はこれからお嬢様を探しに行ってきますから」
「秀麗様に?」
 この家の長子である紅秀麗。太師はその秀麗に用事があるという。一体どんな用事なのだろうか。
「私も、」
「君は残ってなさい」
 椅子から立ち上がろうとしたの肩を静蘭は強く押し再び席に着かせた。ストンと、席に落ちただがどうにも腑に落ちず直ぐにぐいっと立ち上がり静蘭と向き合った。だがが何かを言う前に静蘭は彼女の歯止めにかかった。
「先ほどの太師への対処を考えてください。まったく気付かなかったならまだしも、あのお方は貴方の"その姿"を見て何かを感づいたようだ。火の粉の対処をするのは旦那様でもお嬢様でも――ましてや私でもありませんよ――わかってますか?」
 にこりとした彼の笑みは、なまじ怒った人よりも黒い物を感じさせた。は言葉もなく再び椅子に座りなおした。
「どうしても案が浮かばないようだったら、帰ってからいくらでも一緒に考えてあげます。だから、それまでは大人しくしていてください」
静蘭はそうして部屋を去って行った。きつい言葉の後にはいつでもこうして救い上げの助言を忘れない。侮れない男だ――と思いつつその言葉に救われている自分を何だか歯痒く感じてしまう。

「仕方ない」
 はふと、机上を見た。先ほどの綺麗な七色鳥の刺繍布を脇にやると、布の下から一つの金の指輪が現れた。ついっとそれを手にとり、は一瞥した。何かを決意するように一呼吸をして、その指輪を右手の指に嵌める。

 ふわりと、辺りを一瞬穏やかな風が走った――。
 そこには先ほどの少女は居らず、代わりに一人の少年が立っていた。

 は不思議な金の指輪を持っていた。いつから持っているのかはわからない。
 けれど自分がこの家に拾われた当初から、それはの物であった。

 不思議な指輪――それは、指に嵌めたものを"男"にするという指輪だった。

 一体その指輪が何の役に立つのだ、と思うかもしれないが――実際、大助かりなのである。男という特権を使っては静蘭と供に朝廷の武官を勤めている。秀麗は猛反対をしたが――給金がよいというだけで、は女であることを捨てるのに何のためらいも持たなかった。
 しかし自分が女であることがばれてしまっては、また家計簿が赤い字で埋め尽くされてしまうことになるかもしれない。この家で家人をさせてもらっているにとってそれは何としても避けなければいけないことだった。
「(ううん!そんな事には絶対させない――秀麗様にはずっとお米を食べてもらわなくちゃ!)」
 はそう意気込み、拳を震わし部屋を飛び出した。

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