第五訓 それぞれに進むこと

「茨。この書簡を府庫に預けてここに書いてある本を借りて来い。それと吏部にこの一冊。工部へこの二冊を持って行け。その際工部からこの紙に書いてある書簡をそれぞれ二冊ずつ借りて、刑部の侍郎にこの書類を渡してこい。」
 つらつらと淀み無く言われる黄尚書の言葉に最初は戸惑っていたもの近頃は段々と抵抗が出来てきた。先に行った秀麗とは別の仕事には「はい」と整った返事を返し、差し出された紙を持って戸部を飛び出した。

「最近気づいたんですけど――黄尚書のあの仮面。毎日違うような気がしません?」
 戸部に戻り雑務を一通り済ませたは並んだ書簡を整理しながら、先に戻って作業をしていた秀麗にひそひそと話しかけた。の発言に秀麗は好奇心満々の顔でうんうんと頷いた。
「そうよね!私もそう思ってたの。それにしても――あんな奇妙な仮面どこで手に入れてるのかしら」
「何で仮面をかぶってるのかも謎ですしね…」
「あぁ、それなら知ってるぜ。何でも顔が原因で女に振られたらしい」
 の後ろからたくさんの書物を持って現れた燕青は横道を通りながらあっさりとそう言った。彼が突然現れたことよりもその言葉にと秀麗はえぇっと声を合わせて驚いた。
「そ、それは可哀想ね…だって顔は変えようが無いじゃない」
「えぇ、秀麗様のおっしゃるとおり」
 秀麗の言葉にも頷いた。黄尚書には顔では補えないようなもっと大切なものが色々あるのにと彼女等なりに思っての台詞だった。
「そうですよ。人使いは荒いですけど、その分自分で働いているし。頭も良くて、黄家の地位もあり、おまけにお金もある。最高な相手じゃない」
さん……最後が本音だろ」
「お金は大事なんです!」
 自信満々に頷くに燕青はからからと豪快に笑った。その気持ちのいい笑いは見ているものを和ますものだったが、今のには莫迦にされているようにしか思えずぎろりと彼を見上げた。その視線に気づいてか燕青の笑い声はぴたりと収まる。
「いやー、それにしても二人ともよく頑張るなぁ」
 話を逸らした燕青にに代わって秀麗が「うん」と頷いた。燕青の言うとおりここ最近二人はあれやこれやとした黄尚書の注文を四苦八苦しながらもこうしてきちんとこなしている。言葉には出さずとも間近でそれを見ていた燕青は関心していたのだ。
「そう言う貴方も――ちーっともイヤそうじゃないようだけど」
「あー、うん。これでも昔準試を受けようと考えてたからな」
 準試とは地方の官史になるための試験だ。どちらかというと武官向きに見える燕青の意外な一言にと秀麗も驚いた。
「受けるのは、やめたの?」
 の言葉に「色々あって」と言う燕青に秀麗はぽつりと呟いた。
「今からでも受ければいいのに」
 その声に燕青は秀麗の頭にその大きな掌を乗せ、ぽんと叩いた。
「そうだな。俺も――見習って勉強するかな」
 官史の仕事を引き受けてから少しでも仕事がこなせるようにと、秀麗と絳攸の講義に最近ではも参加するようになっていた。は断られてもかまわないとだめもとで頼み込んだのだが絳攸は穏やかな顔でそれを引き受けてくれた。やる気があるのならかまわない、と。
「あり得ない宿題の量だけどね…」
 遠い目をするに秀麗も同意するように頷いた。

***

「何だってお前は誘いに乗らないんだか、」
 口を尖らせて不満そうに呟く白大将軍の言葉をけれど静蘭は聞かないふりを押し通した。この人のこの手の台詞はもう聞き飽きている。だからこそ、断ると決めているその話を聞いたところで時間の無駄だと静蘭は判断していた。
「はっはーん。あくまで無視ってか。おい、列を抜けねぇでこっち来い。じゃねぇと無理やり右羽林軍に入れちまうぞ!」
「あ。じゃぁ、行きます」
 あっさりと足を浮かせた静蘭に白大将軍は溜息を吐いた。この男は自分がどれだけ口説いても足場を崩そうとはしない。
「そういえば――」
 心配そうに雲がった空を見上げる静蘭を見て、雷炎はふといつも彼の隣にいた少年を思い出した。
 その少年というのはいつかの朝廷武芸大会なるもので四位という入賞を果たした静蘭と同じ米倉番の少年だった。今まで何度か剣筋を見てきた静蘭とは違って、その少年の存在に雷炎が眼を付けたのはその大会が初めてだった。まるで剣舞かのような美しさの、それでいて攻撃的な独特の剣筋――あれほどの腕前でどうして今まで気づかなかったのだろうかと最近よく思う――自分も、そしておそらく黒燿世も。
「おい、静蘭。お前と一緒に米倉番人をしていたあのちっさい坊主。あー、茨…だったか――あれはどうなんだ」
「――どう、とは?」
 どこか冷たい目で静蘭は雷炎を見返したが、それはいつもの事だとそ知らぬふりで雷炎は続けた。
「中々出来る奴なんだろう?嘘とは言わせねーぞ。あれだけの剣さばきだったんだからな。そういや、今は臨時で文官の仕事を手伝ってるらしいが――俺の軍に入る気は無いのか――お前ぇ、仕事が一緒で親しいんじゃないのか――どれ、今度うちの軍に誘ってみるか」
は絶対に入りません」
 雷炎の言葉に静蘭はきっぱりと言い放った。あまりにも当たり前に返すので雷炎は奇妙だと思いながらも眉を寄せた。
「あぁ?そんなの聞いてみねぇと――」
絶対に入りません
 言葉を続ける間も与えず静蘭は笑顔で切り捨てた。
 米倉番人という絶対的に安全な仕事ならともかく――彼女がこれ以上軍に関わっていくことは良くないと静蘭は思っていた――それはおそらくこの話にを関わらせようとしなかった某将軍も思っているのだろうが。
「こりゃぁ、雷様が来そうだな」
 静蘭の怒気にの話を諦めた雷炎の言葉に彼は再び暗い空を見上げた。そして今は少年に扮している二人の少女を思い、密かに眉を潜めたのだった。

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